フラッシュ13

2001年9月20日

自衛隊派遣なかりせば、情念の日米同盟
―真の日米同盟への試金石(その2)―

国際貿易投資研究所 研究主幹
木内惠

 同時多発テロで、日本の自衛隊派遣を決定――このニュースが流れたのは昨19日夜。「テロが日米関係に問いかけるもの:真の日米同盟への試金石(その1)」と題するフラッシュ記事を研究所にて執筆、ホームページへの掲載手配を済ませ、帰宅してからであった
 自衛隊の「参戦」の報に接し、正直なところ、ほっとした。
 というのは、仮に日米同盟に対する米側の期待レベルに満たないアクションしか日本が取れないとしたら・・・・。それが米国人の心情に与える影響、ひいてはそれが日米関係、日米同盟、経済・通商関係などに直接、間接に及ぼしうる悪影響を思うと、気が滅入っていたからである。

 昨日の報告の末尾に付した「予告:明日のフラッシュ欄の予定」の中で、本稿の仮タイトルを「米国情念世界の内なる日本像」と記した。ここに「情念」というような、いささか大時代的な言葉を挿入したのも、日米同盟に対する米側の「心情」的期待値、および日本のアクションがこの期待値に満たなかった場合に、これが日米関係に及ぼしうる影響などについて考察してみたいと思ったからである。これは私なりの事態への警鐘のつもりであった。
 しかし事態は変わった。ここでは、仮に自衛隊派遣という形での日本の「参戦」がなかったならば、心情や情念といった心の深淵部での米国人の日本像はどう変わったかという視点で論を進めたいと思う。対比は時に、事の本質を浮き彫りにする上で有効な手法だからである。

国家を色分け――「同盟国」から「ならず者国家」まで
前回報告で述べたようにブッシュ現政権の対外政策の基調に見られる第1の特徴が対日同盟に対する位置付けの変化だとすれば、第2の特徴は国家の類型化である。国家の類型化自体は近年の米政権にとってさほど珍しいことではない。今、思い出すだけでも、レーガンは旧ソ連を「悪の帝国」と呼び、クリントンは中国を「戦略的パートナー」と位置付けた。
 ブッシュ外交のひとつの特徴は世界の国家あるいは国家群を自らの基準に照らして分類すること、少なくとも、そうした傾向が強いことにあるようだ。
 「人間には3種類ある。家族、敵、使用人である」――日本の某大臣の言葉として伝えられている。米国ブッシュ政権は世界の国家を@同盟国、A戦略的競争国、Bならず者国家――の3種類に分類する。この分類に従えば、日本は「同盟国」、中国は「戦略的競争国」、イラク、リビア等は「ならず者国家」ということになる。中国は、クリントン時代の「戦略的パートナー」から、ブッシュ政権になって「戦略的競争国」に分類がシフトされたことはよく知られている。
 こうした分類方式をここで紹介したのは、これがそれぞれのカテゴリーに分類された国にたいする評価基準の差となって反映されると思われるからだ。国家類型化の思考方式からは、「同盟国」の行動様式に対し、理性的にも、心情的にも、自ずからそれなりの水準の期待値が設定されたとしても、驚くには値しまい。ブッシュ政権にとって、各国の行動様式に対する採点基準は必ずしも一定ではない、この点をまず銘記しないと、見方を誤る。

情念でみる日本像
 ここで、想定問答をひとつ。今回の同時多発テロへの対応で、仮にアーミテージ・レポート(前回報告参照)にいう同盟国としての期待値に日本のアクションが到らなかった場合、どうなるか。米国の国家分類上、日本の位置付けはどう変わるか。
 最悪の場合でも日本が「同盟国」からはずされることはまずあるまい。だが「同盟国」をさらに「信頼にたる同盟国」、「そうではない同盟国」に細分化することはありうるかもしれない。
 こうした考えは若干とっぴに映るかも知れない。だが問題の本質が前回報告の冒頭で述べたようにシンプルであればあるほど、その対応には一層細心の注意が必要になることもまた、世の常なのである。シンプルさに由来する「分かりやすさ」は、容易に人間の感覚的、情念的受け止め方に作用する。こうした人間の感覚的、情念的受け止め方はそれが実感を伴うだけに大きいのである。政治的にいえば、国民へのアピール度合いも大きいということになる。
 もちろん米国の政策当局者、知識人は、憲法の制約、法整備の遅れなどこの問題に対する日本の制約条件は熟知している。「しかし」である。これらは知識として、あるいは理性的には了解はできる事項ではある。だが、感覚として、あるいは心情的に納得できる問題とは限らぬ。理性の枠外、暗い情念の領域に入る問題であるかもしれない。それだけに根深いともいえるのだ。人間の行動を突き動かす本質的な力、それは知識にはない。衝動ともいえる情念の力なのである。シンプルな構図から生まれたかもかもしれない派生効果に改めて目配りの要ありとする所以である。

えひめ丸とは逆の情念ベクトル
 名状しがたい情念に基づく反応というものは、米国の日本に対する反応とは限らない。逆のベクトルも当然、あり得る。その1例は最近の「えひめ丸」事件を契機に露になった日本の米国に対する極めて情念的反応である。「えひめ丸」事件をめぐる日米間の葛藤については、当フラッシュ欄でも取り上げたことがある(2001年3月16日付「えひめ丸事件にみる日米『心情』摩擦」参照)。この事件に対する米国の謝罪の仕方に対する日本側の屈折反応には、単に日米の文化の違いに留まらず、心情や情念、さらには死生観といった深層心理レベルでの葛藤が潜んでいる――というのが、これを執筆した時の偽わらざる実感であった。

パウエル:父と子
 「日米同盟関係は今後は二国間関係のものから、国際犯罪、海賊行為、エイズ、麻薬、などの国際問題と一緒に戦えるグローバルな同盟関係へと転化していかなければならない」――あの衝撃的な世界貿易センター・ビル崩壊の勃発する前日の9月10日、サンフランシスコでの平和条約50周年記念式典にてパウエル国務長官がおこなったスピーチの一節である。アーミテージ・レポートのいう日米同盟の強化をベースとして脱冷戦の国際秩序への対応を呼びかけたものといえよう。
 ここで思い出すのは、もう1人のパウエルの言葉だ。かつて(正確な時期は失念)、ジェトロ・ニューヨークはパウエル現国務長官の子息(軍人)をスピーカーに招き、セミナーを開いたことがある。その時の正確な言葉を今になっては思い出せない。が、子息は概略、次のように述べたことは確かである。
 「仮に日本の周辺で紛争が勃発しアメリカの海兵隊が何人も死んでいくような事態が発生したとして、日本が憲法上の制約を理由に、この事態を座視するならば、日米関係は危うくなる。自らの血を流さずしてアメリカGIの流血を眺めているならば、それは日米安全保障条約が終焉を迎える時である。」

日米同盟に突きつけられた重い問い
 日米安保条約の片務性、憲法上の制約、これらはあくまでも理性的な判断に基づく現状認識である。パウエルの子息が示唆するような米国民の予想される情念的反応とはまったく違う次元での話だ。日米安保条約が真の同盟国としての相互の役割と信頼を前提にして、理性と情念の2つの世界で機能するのか――。これが今回の同時多発テロが日米同盟のあり方に対して投げかけた大きな問い掛けの意味である。
 米国の安全保障世界戦略の核として日米同盟のいわば格上げを唱えたアーミテージ・レポートがあるべき日米同盟関係のモデルにしたのは米英関係であった。その英国はいち早く武力攻撃に参画を打ち出した。日本の対応については、米側は、日本の自主的な判断に委ねるとの態度をとっている。ブッシュ政権になって、日米同盟の実質的格上げがなされた直後に、なんとも厄介な試験に直面したと言わざるをえない。

窓外の双子ビルに寄せて
 南に面した窓外にはいつも、ワールド・トレード・センター・ビルが見えた。雨や霧で見えない時は寂しい思いがした。

アパートの窓外に広がるマンハッタン。写真右上に双子のWTCビル。
 マンハッタンのセントラル・パークの西側、ブロード・ウエイの67丁目に位置する56階建ての高層ビル。その最上階フロア、南と西を望む一隅、そこが私の暮らしたアパートであった。ワールド・トレード・センター・ビルの立地するマンハッタン最南端から距離にして6マイルほど。地上200メートルの空中にある自室の窓を通して見る南方の景色を今、思い浮かべてみる。遠くに世界貿易センタービルが見えない景色を想像することができない。双子のビルは常にそこにあるべきものとして、そこに屹立していた。
 ワールドトレード・センター・ビル倒壊に到る過程をテレビが何度も映し出す。機影、激突、炎、黒煙、叫び、崩壊、砂煙・・・・一つ一つのシーンが衝撃的であった。常にそこにあったはずのものが一挙に喪失する。あり得べかざる光景を私は信州・松本のホテルの一室で深夜まで観た。信州大学での集中講義のため、松本に着いた日の夜半であった。「昨日はニューヨークで信じられないようなことが起こりました」――数日間に渡った米国政治・経済についての講義で私が発した第1声であった。学生は熱心であった。
 日米関係の強固な絆、これとて崩れ去ったときに初めてその存在の重みがわかるのかもしれない。遠くニューヨークに思いをはせながら浮かぶのは、今は瓦礫と化した世界貿易センタービルではない。かつて確かにそこに屹立していた双子のビル影である。北棟と南棟は、それぞれ日米同盟と日米信頼の絆を象徴する影。そんな気がする。