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フラッシュ141 |
2011年6月2日
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通商戦略の潮流と日本の選択 |
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杏林大学総合政策学部/大学院国際協力研究科教授 (財)国際貿易投資研究所 客員研究員 馬田 啓一 |
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(1/4ページ) はじめに 世界貿易機関(WTO)の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)が難航するなか、主要国は自由貿易協定(FTA)への傾斜を一段と強めつつある。東アジアでは東南アジア諸国連合(ASEAN)を軸としたFTAネットワークの構築が加速する一方で、東アジア共同体を視野に入れた広域FTA(ASEANプラス3、 ASEANプラス6)の実現に向けた検討作業が行われている。しかし、東アジアサミットに米国とロシアが参加し、ASEANプラス8という枠組みが登場したため、広域FTAの枠組みをめぐる確執は一層複雑な様相を呈している。 さらに、米国の環太平洋連携協定(TPP)交渉への参加表明をきっかけにして、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の新たな目標であるアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)構想をめぐる動きに注目が集まっている。APEC加盟国のTPP参加を通じてFTAAPの実現を図るというのが、米国の狙いといわれる。今年11月のAPECハワイ会議での基本合意に向けて、目下、参加9カ国によるTPP交渉が進行中である。 日本政府は、当初、今年6月までにTPP参加の判断を下すとしていたが、東日本大震災の影響で先送りとなった。日本を置き去りにしたまま、アジア太平洋地域の通商秩序を決める協定づくりが進んでしまうのか。日本が震災から復興するためには、世界との経済連携を深めることで、その恩恵を享受する環境をつくる努力が欠かせない。日本の通商戦略は重大な岐路に立たされているといえる。 本稿は、目下焦眉の問題となっている通商戦略の課題について取り上げる。具体的には、WTO体制とFTAのあり方、日中韓FTA、ASEANプラス6、TPP、FTAAPなどを含む東アジアおよびアジア太平洋の経済連携の新たな動き、日本のFTA戦略の再構築など、岐路に立つ日本の通商戦略について様々な視点から考察する(注1)。 T.WTO体制とFTA 1.重層的通商政策の背景 このような政策が主流となった背景の一つには、WTO中心主義の限界がある。1999年の米シアトルでのWTO閣僚会議が決裂し、貿易自由化と新たなルールづくりを目指す新ラウンド(多角的通商交渉)の立ち上げに失敗したことの衝撃は大きかった。 その後、2001年カタールのドーハでの閣僚会議でようやく開始が宣言されたドーハ・ラウンド(正式名称は、ドーハ開発アジェンダ)であるが、先進国と途上国の利害調整がうまくいかず、会議は決裂を繰り返し、10年目に入ってもいまだ決着の見通しは立っていない。このように、WTOでの合意形成は極めて困難になっており、各国は多国間主義に固執したWTO一辺倒の通商政策からの軌道修正を迫られている。 もう一つには、「FTAが次のFTAを呼ぶ」というような状況もある。FTA競争の出遅れが通商上の不利益につながりかねないからである。FTAは、関税撤廃によって市場アクセスを容易にするため、域内の国(加盟国)に「貿易創出効果」による利益をもたらす。その一方で、域外の国(非加盟国)に対しては「貿易転換効果」による経済損失をもたらす。関税撤廃の対象が域内の国のみに限定されるため、域外の国からの輸入が、関税が課せられない域内の国からの輸入に転換されるからだ。このため、域外の国も不利益を相殺するためにFTAの締結を余儀なくされるという一種の連鎖反応が生まれ、FTAは加速的に増加している。 2.WTOとFTAの補完的関係 しかし、最近では、WTOとFTAの補完的な関係が重要だとする意見が多くなっている。第1に、FTAで域内の貿易自由化を実現すれば、グローバルな自由化を補完できるからである。第2に、FTAはWTOプラスαを実現するための手段となりうる。WTOで十分にカバーされていない分野で、FTAで先行して新たなルールをつくっていくならば、グローバルなルールづくりを目指した将来のWTO交渉の出発点にもなる。 先進国と途上国の利害対立でWTOでの合意形成が難しくなっているなかで、何もかもWTOに負わせるのは無理であろう。WTOとFTAのすみ分けが重要であり、「WTOかFTAか」の二者択一の議論は不毛である。 ところで、WTO加盟国がFTAを結ぶにあたっては、WTO協定との整合性が問題となる。WTO協定では、GATT第1条で「すべての国に対して無差別に自由化しなければならない」と規定されている。FTAは、域内の国に対し自由化しても域外の国に対しては貿易障壁を残し差別的であるため、GATT第1条に違反する。 このため、WTOはGATT第24条で、一定の要件を満たすならば例外的にFTAを認めるとしている。その要件とは、(1)域外に対する貿易障壁を締結前よりも高めない、(2)実質上のすべての貿易について域内の貿易障壁を撤廃する、(3)撤廃の実施にあたって移行期間を設ける場合は、妥当な期間内(原則として10年)にしなければならない、というものである(注2)。 しかし、この規定には曖昧な部分があり、例えば、「実質上のすべての貿易」とは必ずしも100%を意味していない。このため、多くのFTAがセンシティブな分野をなし崩し的に自由化の対象外としている。FTAでは相手国が了承さえすれば除外品目を設けることができるからだ。GATT第24条と不整合なFTAは、自由化の例外分野を既成事実として固定してしまうため、WTOに悪影響を及ぼすことになる。 3.危機に陥ったドーハ・ラウンド これまでの交渉では、日本とEU(欧州連合)が農産品関税引き下げ、米国が農業補助金の削減、途上国が鉱工業品の関税引き下げに強く抵抗し、3つの争点ごとに各国の好守関係が異なるという、いわゆる「三すくみ」の状態に陥った。2008年7月の7カ国・地域によるジュネーブでの非公式閣僚会合では、食糧価格の高騰を背景に米国が譲歩の姿勢を見せた。これをきっかけにモダリティ合意に向けた意見の収斂があり、一度は大筋合意に近づいた。しかし、最終局面で、途上国向けの農産品特別セーフガード(緊急輸入制限)措置をめぐって、発動条件の緩和を求めるインドや中国と、反対する米国との対立が表面化して交渉は決裂した。 対立点は他にもある。アフリカ諸国などが米国に対して要求している綿花補助金の削減や、NAMAの分野別関税撤廃である。米国はスイス・フォーミュラ方式(注3) による関税削減だけでは途上国の市場開放が不十分だとして、自動車など14分野を特定した関税交渉に主要な途上国が参加するよう強く求めている。 WTOは2009年11月、4年ぶりに公式閣僚会議をジュネーブで開いたが、ほとんど成果がないまま閉幕した。農産品特別セーフガード措置、NAMAの分野別関税撤廃、綿花補助金削減の問題をめぐっては、依然として米国と主要な新興国の間に深い溝がある。一度は解消しかけた三すくみの対立も再燃するなど、対立の構図は基本的に2008年7月の交渉決裂時のままで、ドーハ・ラウンドの先行きは不透明である。そのため、WTO交渉への失望と嫌気から、各国は一段とFTAに通商戦略の比重を移している。 表1 WTOドーハ・ラウンドの流れ
(資料) 経済産業省 なお、2011年中の交渉妥結を目指し、7月に閣僚会合を開いて大筋合意するというラミー事務局長のシナリオは、もはや絶望的な情勢である。2012年は米仏の大統領選挙、中国の指導部交代が予定されており、重要な政策決定は極めて困難となる。ドーハ・ラウンドは白紙撤回の恐れが出てきた。このため、9つの分野のうち貿易円滑化などすでに合意ができている事項だけの「部分合意」も選択肢の一つとして浮上している(注4)。(次ページにつづく) (注1)本稿は、『日本経済新聞』(経済教室・ゼミナール)に連載した「通商戦略の論点1〜32」(2011年4月12日〜5月26日)のうち、筆者が執筆を担当した下記のものを加筆修正したものである。 (注2)途上国間のFTAについては「授権条項」が適用され、GATT第24条を遵守しなくてもよいが、先進国と途上国の間では授権条項の適用は認められず、途上国もGATT第24条の義務を果たさなければならない。 (注3)スイス・フォーミュラとは、X = (A×T)/(A+T) という式で表わされる方式である。Xは削減後の関税率、Tは現行関税率、Aは係数である。この方式では、現行の関税率が高水準であるほど削減幅が大きくなる。 (注4)白紙撤回を回避する狙いから、米国などが部分合意を主張し始めている。しかし、WTO交渉は全分野で一括合意するのが大原則であるため、部分合意は交渉方式を大きく変えることになる。 |