フラッシュ155
2012年5月2日
 

不可解なTPP反対論

 
桜美林大学 名誉教授
(一財)国際貿易投資研究所
客員研究員
   滝井光夫
 

筆者は、日本がTPP(環太平洋パートナーシップ協定、新聞では環太平洋経済連携協定と書いている)に参加しないという選択肢はあり得ないと考えるだけに、2011年初めから蔓延しはじめた参加反対論の好い加減さには、呆れるばかりである。

『潮』の今年2月号には、野口悠紀雄・一橋大学名誉教授が『関税同盟のTPPは「時代遅れ」』と題した論文で、TPPは関税同盟であり、中国排除戦略である、TPPに参加しても日本の輸出は増えないなどと論じている。『TPPやFTA(自由貿易協定)は経済ブロックの形成であり、貿易自由化ではない。経済学では、古くから「関税同盟」と呼んできた』と書く野口教授は果してGATT・WTOの条文を読んだことがあるのかと疑いたくもなる。TPPがFTAであって関税同盟ではないことは、国際経済学のテキストが教えるとおりである。

根強い米国陰謀説

筆者が2011年度秋学期で担当した地域研究のための専攻入門(10数名の教員がそれぞれ専門分野を講義するオムニバス形式の授業で受講者は1、2年生が中心)では、53名の受講者のうち7名が筆者の担当した日米関係で期末レポートを提出した。90分の講義ではTPPについて説明する余裕はなかったが、7名のうちTPPに言及した者が4名いたが、驚くべきことにその4名全員がTPPに反対している。彼らはTPPについて次のように書いている。

「TPPとは米国が広大な農地で作った農産物を外国に安く強引に売りつけるものだ」、「関税を無くし市場を開放することは、デフレ傾向の日本経済をさらに悪化させることは目に見えている」、「一見日米関係は友好状態のようだが、まだまだ問題は山積みである。TPP問題など、日本が米国の言いなりのような部分もある」、「一般国民から見ると、TPPはデメリットな部分が多く、安価な農産物の輸入による自給率の低下、アメリカの要求による遺伝子組み換え食品の輸入増加による食の安全性の低下、国民皆保険制度の破たん、デフレーションによる賃金低下、リストラなど、あまりにもデメリットが多い。それにもかかわらず、日本が参加を表明していることには、米国にこびを売るような姿勢がうかがえる」。

日本がTPPに参加することが、どうして「米国の言いなりになる」とか「米国に媚を売る」ということになるのか。理由も示さずにそう書いているのは、自ら調べもせずにTPP反対論者の意見を拝借しただけのことだろうが、反対論および米国陰謀論の影響の大きさを改めて感じる。消費増税を財務省の陰謀と決めつける議論と同じように、TPPは米国の陰謀とする議論は、問題の核心をぼかし、思考停止に陥らせる魔力をもっているようだ。

TPP反対論の先駆となった中野剛志・京大大学院准教授の『TPP亡国論』(集英社新書、2011年3月第1刷)の帯には「アメリカの仕掛けた罠!日本はまたはまるのか!?、TPPで輸出は増えない!、デフレが進むだけ!」とある。中野准教授の本と相前後して書店に並んだ廣宮孝信・青木文鷹の『TPPが日本を壊す』(扶桑社新書)、森島賢・小林緩枝・山岡淳一郎の『TPPが暮らしを壊す−雇用、食生活、保険・医療の危機』(家の光協会)、東谷暁の『間違いだらけのTPP−日本は食い物にされる』(朝日新書、この本の帯には「このままでは米国の属国だ!、デフレがさらに進む、農業に壊滅的打撃、外国人労働者・資本が押し寄せる」と書かれている)といった多くのTPP批判本は、TPPに対する国民の認識を大きく歪めてしまった。

中野准教授は、TPP参加国は小国ばかりだから、日本が参加したTPPは実質的に日米FTAとなり、オバマ政権の輸出倍増政策によって日本は米国産品の草刈り場になってしまうと主張する。しかし、かつて米国では、中野准教授とは反対の懸念によって、つまり米国が日本とFTA協定を結べば米国の対日貿易赤字が拡大する可能性が高いとの判断から、日米FTA構想を放棄した事実を思い起こすべきである。日米FTA構想は1980年代半ば、マンスフィールド駐日大使が発表し、その後連邦議会は米国国際貿易委員会(ITC)に協定締結の可能性を調査させた。ITCの最終報告書は賛否両論の併記にとどまっていたが、結局、日米の2国間交渉の開始がGATTの多国間貿易交渉をなし崩しにする危険性、さらに巨額の日米貿易不均衡が改善する見込みがないことなどから、議会の議論は立ち消えとなった。その後、2007年に日本が米国にFTA構想を提案したが(日米FTA研究会編『日米FTA戦略−自由貿易協定で築く新たな経済連携』、ダイヤモンド社)、米国から好意的な反応は得られなかった。

このように、現在でも米国は日米FTAを求めているわけではない。ましてや、TPPによって米国産品が一挙に日本市場に押し寄せることもない。すでに日米間の貿易構造も大きく変わり、米国の対日輸出が急拡大することはありえない。1990年に米国の総輸出の12.3%を占めた対日輸出は2010年には4.7%に、また1986年に総輸入の22.4%を占めた米国の対日輸入は2010年には6.3%にそれぞれ大きく低下した。一方、日本からみると、太平洋戦争期を除いて開国以降、日本の最大の貿易相手国は常に米国であったが、輸入は2002年から、輸出は2009年から、中国が米国に代わって日本の最大の貿易相手国となっている。野口教授が言う「(日本の製造業は)TPPによって最大の輸出先である中国を失」うような事態が起ることはありえない。

米国が日本にTPP参加を期待するのは、日本のGDPが米国を除くTPP参加8ヵ国のGDPの約2.5倍と大きく、日本の参加によってTPPが強化され、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)実現の可能性を高めるからにほかならない(後述したカトラー米国通商代表補の3月1日の発言)。

食の安全不安、医療制度の崩壊?

遺伝子組み換え作物(GMO)の輸入で食の安全が確保されなくなる、日本の誇るべき国民皆保険制度が崩壊するといった批判もTPPに反対する有力な根拠とされているが、これも杞憂にすぎない。

食の安全については、TPPの24の交渉分野のひとつである衛生植物検疫(SPS)と貿易の技術的障害(TBT)に関連するが、TPP交渉で9ヵ国が議論しているのは協定の内容についてよりも手続きの迅速化や食品安全のルールの透明化の向上などであって、食品安全基準の緩和は議論されていない。また個別品目を対象とした規律をTPP協定に入れることについての合意はなく、GMOやその表示方法についても具体的な提案はなされていない(4月19日に行われた「TPP交渉への早期参加を求める国民会議シンポジウム」での片上慶一・経済外交担当大使の説明)。

筆者が通院している医院で見た横浜医師会の広報誌『みんなの健康』(No.228、2012年3・4月号)には、横浜医師会の新海副会長が「国民皆保険と医療の安全・安心を守れ!TPPと日本の医療」と題して、TPP参加は自由診療への道を開き、日本が世界に誇る国民皆保険制度の崩壊につながる恐れがあるとして、日本医師会は基本的に反対の立場をとっていると書いている。

公的医療保険制度はこれまでもWTO(世界貿易機関)やFTA、日本が締結したEPA(経済連携協定)でも交渉の対象になったことはなく、TPPで議論になる見込みもない。この3月1日、東京で開催されたパネルディスカッションで米国通商代表部のカトラー代表補は、TPPは日本の公的医療保険制度や保険診療と保険外診療の併用(混合診療)禁止という日本の制度を改めるよう求めていないと明言しているし、通商代表部が毎年3月に公表する『貿易障壁報告』にも、この問題は取り上げられていない。従って、医師会が懸念する『(TPP参加によって)「医療の平等」を根本精神とする(日本の)国民皆保険制度が根底から崩れる恐れがある』という指摘は杞憂に過ぎない。なお、カトラー代表補が上記のパネルディスカッションで挙げた「TPPが日本に求めていない5項目は次のとおりである。@TPPは日本またはその他のいかなる国についても、医療保険制度を民営化するよう強要するものではなく、Aいわゆる「混合」診療を含め、公的医療保険制度外の診療を認めるよう求めるものではない。BTPPは学校で英語の使用を義務付けるよう各国に求めるものではない。CTPPは非熟練労働者のTPP参加国への受け入れを求めるものではない。D他国の専門資格を承認するよう各国に求めるものではない(http://japanese.japan.usembassy.gov/j/p/tpj-20120314a.html)。

曲解されるISDS条項

さらに新海副会長は上記の記事で、「ISD条項を使って日本の公的医療保険制度が参入障壁であるとして訴えられることも考えられる」と書いている。ISD条項、正確にはISDS(Investor State Dispute Settlement、投資家と投資受入国との間の紛争解決)手続とは、投資した企業が投資先政府の政策によって損害を受けた場合、国際的な仲裁法廷に賠償を申し立てることができる制度である。米国企業とカナダ、メキシコ政府間の紛争事例がよく取り上げられるが、日本のEPAおよび二国間投資協定にもすべてこうした条項が入っている。ISDS手続が発動される場合は、政府の規制が外国企業を差別的に取り扱ったり、規制制定の手続きに問題があったりした場合であって、日本の公的医療保険制度がISDSで訴えられることは考えられない。TPPに入ればISDSによって、日本の国家主権が脅かされるといった極端な話は根拠のない、ためにする作り話である。

上記の片上大使の説明によると、TPP交渉の投資分野で議論されているのは、ISDSを利用した乱訴の防止とか、国家による一定の行為についてはISDSの対象外とすべきだといったものだという。なお、オーストラリアのようにISDSの導入そのものに反対している国もある。

新しい貿易秩序とルールの構築

このようにTPP反対論は、被害者意識の強い日本の国民性を利用した、あるいは隠された別の目的を達成するための議論である。こうした反対論に惑わされず、いま必要なのは、TPP問題を内向きに考えるのではなく、日本が直面している課題を前向きに捉え、環太平洋貿易の秩序ルール作りに積極的に関与していくことである。貿易の自由化問題だけではなく、政府調達市場への参入拡大、知的財産権の取り決め、さらにWTOにはない競争政策の整備、環境や労働問題のルールの策定がTPPの大きな課題であることを忘れてはならない。

さらに、これまで日本のEPA交渉で手掛けたことのない「分野横断的事項」では、加盟国が実施している規制のTPP内における調和と整合性の強化、地域ワイドなサプライチェーンシステムの効率化・迅速化、さらにFTAのメリットを十分に享受できていない中小企業にFTAを使いやすいものにするための方策、といった問題が議論されている。

東アジアに生産拠点を展開し、重層的で多様な分業体制を構築している日本企業にとって、各国間で異なる制度や規制の統一化を図ってサプライチェーンシステムを効率的に運用することは必須の課題であり、これはすべての多国籍企業が共有している課題でもある。TPPに参加しなければ、こうした問題のルール作りに関与できず、日本が成長著しいアジア太平洋の貿易と投資から取り残されてしまうことになる。

同時に日本の制度を国際的な基準に調和させることも当然の課題となる。郵政民営化見直し法案では、簡易保険の民営化が後退し、民間の保険会社に比べて優遇されていると米国が強く批判している。TPPの24の交渉分野のひとつである競争政策では、有利な待遇を与えられた国有・国営企業によって競争および貿易が歪曲されることを防止し、民間企業と平等な条件が与えられるよう米国は強く求めている。簡保を問題視するのは米国だけではなく、日本の民間保険業界も米国と同様の考え方をしている。国内における官と民の対立がTPPによって解決されるとすれば、むしろ好ましい。小寺彰・東京大学大学院総合文化研究科教授は、外圧によって国内法制が変更を迫られ、グローバルな基準に合致したものに変わっていくことはむしろ歓迎すべきであり、いまやそういう時代になったと認識すべきであると述べている(3月29日東大本郷キャンパスで開催された「TPPと日本」シンポジウムでの発言)。

農業再生の方向

言うまでもなく、TPP反対の最大の目的は日本の農業保護を強化することにある。工業のために農業が犠牲になり、TPPに参加すればとりわけコメへの影響は大きく、食料自給率は13%に低下する(農水省試算)。「地域社会は崩壊し、国土は荒れ果てる」(鈴木宣弘・東大大学院教授、朝日新聞2010年12月3日付朝刊)。「日本の米作、畜産は規模拡大政策では存立し得ない。可能なのは日本農業に大きな打撃を与えない国々との間の2国間協定であり、それのみが現実的であろう」(伊東光晴・京大名誉教授、エコノミスト2010年12月21日号)。しかし、こうしたTPP反対論にもかかわらず、2010年に兼業農家は農家全体の7割強を占め、農業就業者の平均年齢は65.8歳と高齢化も止まらない。TPPに参加しなくても、日本の農業の先行きが厳しいことは否定できない事実である。

従って、日本が目指すべきは、二者択一ではなく、TPP参加と農業の再生との両立である。日本のEPAは農産物を自由化の対象から外してきたため、自由化率は90%に達せず、韓米FTA、韓EU・FTAのそれぞれ99.7%、98.1%(品目数ベース)を大幅に下回っている。日本が農産物自由化を渋り続ければ、あるいは伊東教授の主張するように、日本が農業に打撃を与えない国とのEPAにこだわり続ければ、EPAを結んだとしても日本企業が得る利益はわずかなものでしかない。日本のFTA率(貿易全体に占めるFTA締結国との貿易の割合)は現状の17.4%から大きく拡大することはない(米国およびEUとFTAを結んだ韓国のFTA率は35.6%)。競争力を失った日本企業の海外移転は止まらず、産業の空洞化はさらに進むことになるだろう。

国民に対する適確な周知の努力

筆者は最近2つのTPP関連の催しに参加した(3月29日の「TPPと日本」シンポジウム、4月19日経団連会館国際会議場で行われた「TPP交渉への早期参加を求める国民会議」シンポジウム)。そこで筆者が得たのは、TPP反対派と賛成派は水と油でまともな議論を進めることも、相互理解も不可能であるとの認識である。3月のシンポジウムにパネリストとして出席した3氏は、日本国民にとってTPPは論外(論ずる対象にすらならない)と主張する藤井聡・京都大学大学院工学研究科教授、政府は情報を隠蔽し、操作して民意を欺いていると非難し、より手厚い農業保護を訴える鈴木宣弘・東京大学大学院農学生命科学研究科教授、旧態依然の議論を続ける東谷暁・ジャーナリストである。こうした確信的な反対論者は賛成論者(当日の出席者は上述の小寺教授のほか、深川由紀子・早稲田大学政治経済学術院教授、山下一仁・キャノングローバル戦略研究所研究主幹)の議論に耳を貸そうとしない。

いま必要なのは、賛成派、反対派との間の感情的な議論ではなく、最新のTPP交渉の状況を政府が適確に国民に広報し、国民の認識を深め、TPPに対する国民の支持を高めていくことである。そのために、政府および関連機関は情報を積極的に公開し、それを分かりやすく国民に知らせていくことが必要である。日本経団連はこの4月に『本当にわかるTPP−世界とともに生きていくために−』と題したパンフレット(http://www.keidanren.or.jp/policy/2012/pamphlet201204.pdf)を作成したが、こうした努力は他のより多くの関連する機関にも求められる。

観念的な反対論ではなく、実践的な報道も必要である。家庭の主婦が主な読者である女子栄養大学の月刊誌『栄養と料理』の今年1、2月号では、佐藤達夫・食生活ジャーナリストが「FTA先進国・韓国の取材から学んだこと」と題して、米国およびEUと締結したFTAの韓国農業に与える影響は意外に小さいことを報告している。また、上述の4月のシンポジウムで紹介された、千葉県香取市で90軒の農家を組織し、農業の6次産業化に取り組む農事組合法人和郷園(木内博一・代表理事)のような事例を取り上げ、日本の農業の現状について国民の理解を深めることが必要である。和郷園のURLは次のとおり。http://www.wagoen.com/