フラッシュ39
2002年10月29日


バリ島テロ後の米国東南アジア経済戦略


国際貿易投資研究所
研究主幹 佐々木高成



 経済学者として著名なプリンストン大学のP.クルーグマン教授は先のバリ島爆弾テロ事件の後、ニューヨークタイムズ紙への寄稿の中で概要次のように述べている。「アジア経済危機当時、首都にある大企業が軒並み倒れていく中で、インドネシア経済にとってクッションの役割を果たしたのが地方の中小企業による輸出増やバリ島に代表される観光業だった。今回テロリストはその観光業を狙うことにより、弱体化した同国経済にさらなる打撃を与える効果的な方法をとったのだ」。

 テロは経済に限らず社会の脆弱な部分を標的にする。社会不安や貧困はテロの直接的原因ではないにせよ、テロリストにとって温床となりやすい環境を提供する。テロ事件はフィリピンでも続発したが、インドネシアやフィリピンは観光面でダメージを受けただけではない。「海外投資家の信頼を失って自国への投資が細る一方、中国への投資の流れをさらに加速させてしまうのではないか」という不安感が現地で出ている。

 米国にとって中国と並ぶ経済的重要性を持つ東南アジアにおいてクルーグマン教授が指摘するような経済的脆弱性を是正する政策はテロ対策上も重要だ。米国は特殊部隊やアドバイザーの派遣、コンテナー安全確保対策等の狭義の安全保障対策だけでなく、どのような総合戦略を取ろうとしているのか。

 ブッシュ大統領が9月20日に発表した米国の「国家安全保障戦略」は正にそのような総合的戦略を示しているように見える。同戦略ではこの6月にブッシュ大統領が打ち出していた「米国が脅威に晒された時に敵の攻撃を座して待つのではなく、必要なら先制攻撃をも辞さない」とのドクトリンが再度言明されているばかりでなく、相当のスペースを使い経済面の戦略について次のように言っている。
「米国は全世界に自由の恩恵を均沾させるようこの機会を利用する。世界のすべての場所に民主主義、開発、自由市場、自由貿易をもたらすよう積極的に動くだろう」
「開発に関しては“新千年紀基金”を活用する」*

 ブッシュ大統領はここで教条主義的とも思えるようなトーンで自由市場、自由貿易を民主主義と並んで目指すべき高位の原理として語っている。自由貿易推進の柱として掲げられている自由貿易協定(FTA)については、シンガポールとチリとの間で今年中に締結する予定であり、次いで中米5カ国、南アフリカ、モロッコ、オーストラリアを対象とすることを同戦略の中で具体的に明記している。つまり同戦略を見る限り、米国はFTAを単なる通商政策のツールとしてではなく国家安全保障戦略の欠くべからざる一部として位置付けているのである。

 もともと、米国が過去結んだFTAをみてもその成立の背景には経済的要因もさることながら、外交的要因が色濃く込められている。米国にとって最初のFTAは1985年のイスラエルとのもので、その後米加FTA(89年)、NAFTA(94年)、対ヨルダンFTA(2000年)と続く。イスラエルについては、同国が直面していた経済的苦境および米国の経済援助への依存から脱却することを助けようというのが米国の思惑としてあった。NAFTAでは当時進展していたメキシコの国内改革が後退することを協定によって歯止めをかけ、隣国の社会的安定を支援する意味合いが込められていた。ヨルダンとのFTAでは同国がイスラエルとアラブ諸国との橋渡しの役割を担ったこと、改革を進めるアブドゥラ国王への支援が背景にあったとの見方がなされている。

 このFTAに関して米国は東南アジアにおいてどのような戦略性をもって推進しているのか。中国が2001年から対ASEAN自由貿易協定を積極的に進めているのに比較して米国の対応は緩慢との印象が強かった。しかし、米国はこの10月26日、「ASEAN行動計画」を発表し、「今後ASEANとの間で条件の整った国からさみだれ式にFTAを結び最終的にFTA網を構築していく」との青写真を示した。まずは、既に貿易投資枠組み協定を結んでいるインドネシア、フィリピン、タイとの間で手をつけることになろう。
 ゼーリック通商代表は今後米国が推進するFTAの目標として、@市場開放(チリ、シンガポール)、A安全保障(モロッコ、オーストラリア)、B経済開発と民主主義(南アフリカ、中米)、C経済開発と安全保障(FTAA)、だと明らかにしている(10月1日、ナショナルプレスクラブでの講演)。ASEANはこの中では言及がないが、あえて推測すればこの4つの要素をASEAN各国に対して、それぞれ異なる割合で組み合わせたものになるのではないか。

 経済開発支援については先述のように新千年紀基金がツールとして準備されている。これは米国のいう「健全な政策」を実行する途上国に対して援助資金を米国が提供する仕組みだが、その判断基準や配分方法など漠然としているため実際にこの基金により東南アジアの国がどのような規模の資金援助が期待できるのか今のところ不明である。しかし、こうした仕組みを通じて米国が好ましいと考える経済・社会制度の方向に途上国の政策を収斂させようとするところに戦略の重きが置かれているように見える。この点はFTA戦略の狙いにも一脈通じているようだ。


*今年3月14日、ブッシュ大統領が発表した政策の骨子は次のとおり。
@米国は今後3年間にわたり開発援助を50%増額(年ベースで50億ドルの増額)する。
Aこの増加分を「新千年紀基金」に投入し、人権保護、腐敗防止、教育投資、衛生改善、市場自由化、など健全な政策を実行した途上国に対して基金から援助資金を配分する。