2004/05/01 No.62体制転換から15年(15年は何をもたらしたのか)〜拡大EUの誕生に寄せて
田中信世
(財)国際貿易投資研究所 研究主幹
2004年5月1日、ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、エストニア、ラトビア、リトアニアの中・東欧8カ国とキプロス、マルタの地中海2カ国のEU加盟がついに実現し、25カ国の拡大EUがスタートした。中・東欧諸国にとっては、89年の体制転換から15年を経てようやく手中にしたEU加盟である。
拡大EUの誕生に寄せて以下に、中・東欧8カ国がEU加盟に要した15年という時間は長かったのか短かったのか、またこの15年の動きは中・東欧諸国やEU、ひいては世界にとってどのような意味を持つのか等の点について、EU加盟までの動きを簡単にふりかえりつつ考えてみたい。
中・東欧諸国の体制転換の動きが一挙に高まった89年当時ウィーンに駐在し、社会主義時代の中・東欧諸国の状況や体制転換の動きを垣間見る機会のあった筆者には、これら諸国が大きな混乱に見舞われながらも体制転換と市場経済化を果たし、15年という短い期間によくぞEU加盟にまでこぎつけたものだというのが正直な感想である。
体制転換の予兆
まず、東西冷戦時代の末期の体制転換の前夜ともいうべき88年末当時、中・東欧諸国のなかで体制転換に向けた動きが一番早かったハンガリーと、ハンガリーに近接するウィーンの街の様子はどのようなものであったか。以下に少し長くなるが、その当時、筆者がウィーンから報告したレポート(ジェトロ通商弘報、1989年1月9日号“年末年始の動き”特集)から抜粋してみよう。
「1988年11月7日。この日、ウィーンの街はハンガリー人の買い物客が異様に多かった。ふだんでもハンガリー人の買い物客が多いウィーンのショッピング街、マリアヒルファー通りでは、朝から手に手に家電製品の大きな包みを抱えたハンガリー人でごったがえし、歩道の上では身動きがとれないほどの混みようになった。
昼前にはウィーンの街のいたるところで交通渋滞がはじまった。
11月7日、月曜日-ハンガリーでは1921年11月6日のオーストリア・ハプスブルク家の王位返還を記念した「革命記念日」の祝日に当たるこの日、団体バスを仕立てたり、自家用車に乗ったハンガリー人が、平常どおり営業しているオーストリアの商店を目指して、早朝から大挙して押しかけたのである。
この日、国境を越えてオーストリアに入ったハンガリーの買い物バスは560台、乗用車は2万台といわれ、ハンガリー人の買い物客数は10万人に達したと推定されている。
ウィーン市内に入ったハンガリーのバスや自動車は、もともと駐車場の少ないこの街のなかで車を止めるところがなく、片道2車線の道路の1車線を駐車場代わりに使うものもでたため、ウィーン市内の道路は終日ほぼマヒ状態に陥った。…(中略)
そして、ウィーンやその周辺で買い物を終わったハンガリーの人たちは、午後から夕方にかけて、買った商品を車の屋根に乗せてハンガリーへの帰途についたのである。帰りの道路が大混乱に陥ったことはいうまでもない。ウィーンとブダペストを結ぶ幹線道路である国道10号線では、国境のニッケルスドルフまで30キロの渋滞が続き、その他の国境通過地点でも長い渋滞の列が続いた。オーストリアの国境税関がディーゼル車の排気ガスの悪臭に悩まされながら、ハンガリーに帰る最後の車の通関を終わったときには、翌日、火曜日の午前4時になっていたという。
11月7日にみられたハンガリー人の買い物風景に象徴されるように、ハンガリーでその年の1月1日に海外旅行が自由化されて以来、西側に出国するハンガリー人の数は急速に伸びている。そして、旅行の目的のほとんどが買い物であり、オーストリアだけでも年初以来ハンガリー人が買い物をした金額は約100億シリング(1シリング=10.41円、89年)に達すると推定されている。
ハンガリーでは海外旅行が自由化されて以来、10月までに西側に出国した人の数は、人口の約5分の1に相当する約200万人といわれている。しかし、このことから直ちにハンガリー人の5人に1人が西側に出国したとみるのは早計である。推定によれば、年初から10月までに1回西側に出国した人は100万人弱。これに対して2回以上出国した人が約50万人、さらに10回以上出国した人が約1万人とみられている。…(以下略) 」
上記のレポートは東西冷戦の体制の中で東のブロックに組み入れられた中・東欧の人たちの西側の自由な空気を吸いたい、西側の商品を買いたいというエネルギーがいかにすさまじいものであったかを示す一例であり、今から思えば、その後に続く、中・東欧諸国の体制転換の動きの“予兆”と言うべきものであった。
その後、89年から90年にかけて別表のような“激震”があったことはまだ記憶に新しいところである。
中・東欧諸国における体制転換の動き(1989~90年)
89年5月 | ・ハンガリーで「鉄のカーテン撤去」 |
89年6月 | ・ポーランドの自由選挙で連帯圧勝 |
89年10月 | ・ハンガリーで一党独裁を放棄(国名を「人民共和国」から「共和国」に変更 |
89年11月 | ・チェコスロバキアでビロード革命 |
〃 | ・東独で国外旅行の自由化宣言 |
〃 | ・東独、西独との国境を開放(ベルリンの壁崩壊) |
89年12月 | ・ルーマニアでチャウセスク体制崩壊 |
90年3月 | ・バルト三国がソ連からの独立を宣言 |
90年12月 | ・東西ドイツ再統一 |
EU と中・東欧諸国の思惑
体制転換によってソ連のくびきから解放された中・東欧諸国に対して、EU(当時EC)がとった行動は素早かった。これら諸国の市場経済化への移行に伴う混乱を回避するために、支援計画を整備するとともに、これら諸国の将来的なEU加盟を視野に入れた欧州協定を91年末のポーランド、ハンガリーとの締結を皮切りに、96年にかけて次々と締結していった。欧州協定には自由貿易協定も含まれ、自由貿易協定によるEUと各国の関税相互引き下げは、EU等からの進出企業を中心とする中・東欧諸国の対EU貿易の拡大に大きく貢献し、中・東欧諸国の産業構造の高度化にも寄与した。そして、こうした流れの延長線上で中・東欧諸国は94年以降、次々とEUに加盟申請を行ったのである。
体制転換後のこうしたEUと中・東欧諸国の動きの背景にあったものは何か。EUの側からすれば、中・東欧諸国の体制転換後の混乱をとりあえずは、経済援助などによって最小限に抑えることにより、難民の流入を食い止めたいということであったと思われるが、長期的には中・東欧諸国をEUの中に取り込み、EUの領域を外延的に広げて、第二次世界大戦後40年間にわたって 東西に 分断されていた欧州の再統合を図るとともに、市場の拡大を図りたいという意志が強く働いたものと思われる。
またその過程で、EUにとっては、東西ドイツ統一問題をどのように処理するかという問題も最重要の政治課題として持ち上がった。そしてこの問題に対しては、当時のドロールEC委員会委員長の打ち出した方向性にしたがって、(1)東独を西独の一部として処理する、(2)(統一ドイツの出現によるドイツの影響力増大を封じ込めるために)ドイツをEUという運命共同体の中に取り込みEUとして政治同盟の推進を図る、という解決策が模索された。
一方、社会主義圏から離脱したばかりの中・東欧諸国にとっても、40年間にわたる社会主義体制で疲弊した社会と経済を市場経済化を通じて立て直すことが当面の最重要課題であり、そのためには西欧諸国の支援が不可欠であった。また、安全保障上の観点から、元の社会主義体制への逆戻りを避けるために西側の枠組みの中に一刻も早く入って体制転換の流れを不可逆的なものにしたいという思惑も強く働いたものと思われる。
双方のこうした強い意志は、わずか15年という短期間に中・東欧諸国のEU加盟が実現にまでこぎつけるというエネルギーがどこから出てきたのかという疑問に対する答えのひとつになっているように思われる。
こうして、加盟申請後の中・東欧諸国は、EUへの加盟過程(プロセス)に入った。中・東欧諸国のEU加盟プロセスとは、加盟候補国が、加盟に当たっての前提条件として、いわゆるコペンハーゲン基準(人権の擁護などの政治基準や、加盟後のEUとの競争に耐えられる経済力を持つという経済基準)を満たすとともに、経済、社会のあらゆる分野で総体としてのEUの法体系(アキコミュノテール)を受け入れるための準備過程ということができる。そして、98年3月から始まったEU加盟交渉は、中・東欧諸国が加盟時までに最終的に、資本・モノ・人の自由移動など全部で31の分野でこのアキコミュノテールを受け入れることができるか、受け入れられない場合は暫定措置をどのように取り入れるかという交渉にほかならなかった。
そして、このEU加盟交渉が2002年12月のコペンハーゲンでの最終交渉で妥結したことを受けて、2003年4月にアテネで加盟条約の署名が行われ、さらに、中・東欧各国での国民投票による信任を経て、2004年5月1日、新規加盟10カ国を加えた拡大EUが正式に発足したわけである。89年の体制転換に端を発したいわゆるソ連圏の崩壊により、すでに90年代初めには、イデオロギーによる欧州の人為的な分割をもたらした東西冷戦構造の終えんは明らかとなったが、拡大EUの誕生は、それから15年の歳月を経て、中・東欧の旧社会主義国を包含する欧州の再統合という形で新たな枠組みが確定したことを意味するものと位置づけることができよう。
拡大EUのインパクト
EUは今回の拡大によって少なくとも数字の上では次のような規模拡大を遂げることになる。
1) 面積の拡大や人口増加;2002年の新規加盟国の人口は7,450万人、EU15カ国の人口は3億7,910万人であり、合計すると4億5,360万人の人口を擁する巨大市場が誕生する。新規加盟国の人口の比率は全体の16.4%であるが、新規加盟国の数の多さも考慮に入れると、中・東欧諸国等の新規加盟は、今後のEUの意思決定において少なからず影響力を及ぼすことになるものと見られる。
2) 国内総生産(GDP)の増大;新規加盟国の経済規模が小さいため、中・東欧諸国等の新規加盟によるGDPの規模拡大は極めて限られたものになる。すなわち、2002年の新規加盟国とEU15カ国GDP はそれぞれ、4,173億ドルと8兆6,323億ドルであり、新規加盟国のGDPは全体の4.6%を占めるにすぎない。また、EU15カ国と新規加盟国の経済格差が顕著であるため(2002年の1人当たりのGDPEU15カ国平均の2万2,774ドルに対して新規加盟国の平均は5,601ドルとEU15カ国の3分の1にも満たない)、EU25カ国になると1人当たりGDPは1万9,954ドルとEU15カ国の水準と比べて大幅に低下する。
拡大後のEUの姿が上記のようなものになるとして、EU拡大を今後の世界の政治情勢やパワーバランスの中で考えるとき、上記の 1)から派生する拡大EUのプレゼンスの高まりという側面がより重要な意味があるように思える。
89年に東西冷戦構造が終結した後、世界の政治的な動きの中で目に付くのは世界の超大国としてのアメリカの突出であり、アメリカのスーパーパワーを背景としたユニラテラリズム、あるいはアメリカの単独行動主義という現象が強まったことである。このアメリカの単独行動主義がより明瞭な形で現れたのが、先のイラク攻撃をめぐる国連安全保障理事会での攻防であり、明確な形での国連決議なしにイラク攻撃に踏み切ったアメリカに対して、フランスとドイツ、それにロシアを加えた3カ国はあくまで「査察継続支持、武力行使反対」を掲げて反対したことは記憶に新しい。一般的に、アメリカの単独行動主義に対して抑止力を持つ有力な地域・国としてはEU(およびその主要国)が挙げられることが多いが、事実、イラク攻撃ではアメリカの攻撃を抑止こそできなかったものの、少なくともフランスとドイツはロシアとともに国連決議重視の方向で動いてきた。
「アメリカの外交政策が成功するかどうかはヨーロッパとの関係にかかっており、イギリスが親米的、フランスが反米的であることを考慮すれば、ドイツとの関係が鍵となる。ヨーロッパとの健全な協力関係は、超大国アメリカの孤立を防ぐための最も重要な手段である」(サミュエル・ハンチントン、『文明の衝突と21世紀の日本』、集英社新書)というハンチントンの指摘が正しいとすれば、25カ国と規模が飛躍的に拡大したEUに対してアメリカは、これまで以上にその関係に気を使わなければなければならなくなることは、間違いないものと思われ、その意味で、世界のパワーバランスに与える拡大 EU のプレゼンス(影響力や発言の重み)は今後の国際政治の場において、一層高まることになるものと予想される。
一方、拡大EUの前途をEUが内部で抱える課題という観点から考えるとき、その前途は決して平坦ではないように思える。今後の拡大 EU において問題になりそうな点をいくつか順不同で挙げてみると、次のような点が考えられよう。
1)前述のように、新規加盟国とEU15カ国との経済格差の大きさは歴然としており、その格差を埋めるためには今後長い時間を要することは避けられない。拡大EUは域内に経済発展水準が大きく異なる国々を抱え込むことにより、二重の経済構造を持つことになり、このことは今後の金融、財政政策を始めとする共通政策を実施するうえで大きな制約条件になることが予想される。
2)中・東欧諸国のEU加盟は、前述のように15年という短期間で達成されたこともあり、時間を優先したという側面がないわけではない。EU加盟交渉における31分野のうち、かなりの分野で暫定措置が設定されたことはこのことを物語っているように思われる。したがって、この暫定措置の期間が経過し、中・東欧諸国が完全な形でEUとの市場統合を果たすには今後さらに7 ~ 11年の歳月が必要となる(分野別の暫定措置については、『ITI 季刊国際貿易と投資』(No.55)の「拡大EUとビジネス環境の変化」、農業分野の暫定措置については、同書(No.51)の「EU拡大と新規加盟国への資金移転」を参照)。
3)新規加盟国はEU加盟前の段階からPHARE(対ポーランド・ハンガリー 経済 再建 援助 計画)、ISPA(運輸・環境インフラ支援)、SAPARD(農業構造改善・農村開発支援)などのEUからの支援(90~2003年に総額で約200億ユーロを支援)を受けてきた。EUからの支援は中・東欧諸国の構造的に弱い農業部門などを支援するために、これら諸国のEU加盟後も続けられ、2004~2006年に総額約400億ユーロの予算支出が計画されている。このことは、新規加盟国の支援のためにEUとしての重い財政負担がこれからも続くことを意味し、ドイツなどEU内部の財政負担国の不満が今後とも根強く残るものと見られる。
4)ユーロは99年の導入以来、単一通貨建て金融・資本市場の誕生で、資金調達通貨、投資通貨としての重要性が高まっている。また、ユーロはアメリカの貿易赤字の大幅拡大というドル安要因もあって直近の対ドル相場は1ユーロ=1.2ドルを上回る大幅なユーロ高で推移している。当面、ユーロ圏ではユーロに対する信認維持のためにも、ドイツ、フランスなどのユーロ圏コア国の財政赤字の解消が大きな課題となる。一方、新規加盟国のユーロ参加は、各国通貨の為替相場メカニズム(ERM Ⅱ;ユーロと通貨統合非参加国通貨の為替相場の安定をめざした制度で、各国通貨がユーロから15%以上乖離した場合無制限に介入)への2年間参加を含むマーストリヒト経済収れん条件の5項目を達成し、金融システムが整備された後となる。新規加盟国はおしなべてユーロの導入には意欲的であるが、経済収れん条件の達成、金融システム整備の進捗に時間がかかる と見られる ことから、ユーロの導入は最も早い国でも2008年以降になるという見方が有力である。
5)現在EUでは拡大EUを前提とした憲法草案が議論されている。新憲法の議論の焦点は、(イ)新設の大統領の選任方式、(ロ)欧州委員会委員数の削減、(ハ)欧州理事会や閣僚理事会における新方式による多数決制の導入、などであるが(詳細についてはフラッシュNo.46「EU憲法草案と「小国」の懸念」参照)、いずれの問題についても底辺にあるのは、EUの意思決定を大国が牛耳るようなことにならないか、中小の加盟国の意見が正当に反映されるのかという問題である。憲法草案では大統領ポストを新たに創設するなどの工夫が見られるが、閣僚理事会が最高の意志決定機関であることには変わりがない。これはとりもなおさず、EUが1つの連邦国家ではなく国民国家の連合体であり、国家の代表者が集まって協議のうえ、多数決でEUとしての意思決定を下すという方式をこれからも続けるということを意味する。EUが国民国家の連合体として存続する限り、クシシトフ・ポミアンが『ヨーロッパとは何か-分裂と統合の1500年』(平凡社)の中で述べている「民衆(ネイション)、国家(ステイト)、イデオロギーに関する自己中心主義」から脱却することは困難と思われ、こうした体質からの脱却は永遠のテーマとなろう。
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