フラッシュ29
2002年3月1日
| 強いアメリカの自画像(その5) ――マキャベリとキッシンジャー―― |
| 国際貿易投資研究所 研究主幹 木内 惠 |
「米国は対外政策を必要としているのか?:21世紀の外交の向けて」と題するヘンリー・キッシンジャーの近著は、かなり刺激的な内容である。この刺激性は何処から来るか。それはこの本が何のためにそして誰に向けて書かれたか、という点に負うところが大きい。 まず、何のために書かれたか? あるべき政策を示すためだ。今日における米国の覇権的地位(preeminence)にとどまらず、そうした覇権的地位に由来するパワーをいかに行使すべきか――これが本書を世に問うキッシンジャーの目論見であった。冷戦後世界の地政学的分析とこれに基づく政策の方向を示した書であり、その意味で、単なる学術論文ではなく、実践的指南書である。本書は基本的に「ゾルレンの書」であると前回報告(その4)にて指摘した所以もここにある。 キッシンジャー版『君主論』 次に、誰のために書かれたか? 本書を「マキャベリの『君主論』のキッシンジャー版」と断じたのはニューヨーク・タイムズ紙(2001年6月1日付)の書評子である。実際、このたび、私が本書を改めて読み返して思い起こしたのは、学生時代に読んだことのあるマキャベリの「君主論」であった。キッシンジャーとマキャベリ。生きた時代も場所も異なる二人の著述は時空を超えて呼応しあうところもある。 キッシンジャー。1923年南ドイツのユダヤ系家庭に生まれる。ナチズムの迫害から逃れるため、一家は米国に移住。このときキッシンジャーは15歳。移住後、軍隊、ハーバード大学、同大学教授を経て、69年、ニクソン政権下で大統領国家安全保障担当補佐官、国務長官を兼任。 マキャベリ。16世紀ルネサンス期イタリアの歴史家、政治学者。その代表作「君主論」は、君主たるものが権力をいかに維持・伸長すべきかを説いた。政治と倫理との峻別を説く立場は権謀術数の代名詞とされ、それが故に一時は禁断の書とされた。だが、誤解を恐れずにいえば、それが故にこそ「君主のマニュアル」と位置づけられるのではないか。 マキャベリのリアリスティックなアプローチは社会科学としての政治学を樹立する上での礎となった。政治を個人や社会の倫理のクビキから解放したというのが、マキャベリの功績とされる。その結果、マキャベリについては、かつての「権謀術数の布教者」という悪イメージからから、今日では「冷静な現実直視者」として再評価する向きが多くなっていることは確かである。その代表的論客が塩野七生氏か。 好きになれない理由 ただ、私に限って言えば、今回、君主論を何10年かぶりに読み直して思ったのは、正直なところ、これは決して愉快な本ではないということである。この名状しがたい嫌悪感は何に由来するか。つらつら考えるに、3点ほど思いついた。 第1に、この書が基本的に性悪説に立っていることである。例えば、次のくだりに表れた人間性悪観はただ事ではない。
第2に、本書は目的成就のための技術伝授に徹するがあまり、理念や道義といったものを極端に軽視した印象をぬぐい切れないからだ。例えば以下の言葉はその最たるものではないか。
第3に、こうした技術を駆使して達成すべき価値体系や秩序体系といったグランド・デザインが見えてこない点である。そうである限り、君主という1個人のためのサバイバル術の手引書という印象すらぬぐえないのである。 もちろん、この本が書かれた時の時代背景を斟酌すれば、上に述べた評価は公正を欠いているかもしれない。だが、こうしたそしりを覚悟の上で、なお読後感はよろしくなかったといいたいのである。これに比し、キッシンジャーには、少なくとも世界の秩序形成についてのビジョンがある。たとえ、たとえ、それが米国主導の世界秩序つまりパックス・アメリカーナのためであっても、である。 たった一人の読者に向けて 回り道をしすぎたかもしれない。再び、キッシンジャーの近著に戻ろう。「米国は対外政策を必要としているのか?」は誰に向けて執筆されたか? 読者は1人しかいない。マキャベリが1人の君主のために著した指南書が「君主論」だとすれば、キッシンジャーが指南すべき今日の「君主」は1人しかいない。ニューヨーク・タイムズ紙は、「共和党員のキッシンジャーがたった一人の読者を想定して執筆したのが本書だ」とした上で、「たった一人の読者」とは、他ならぬジョージ・ブッシュその人であると名指した。 米覇権への屈託なき確信 300ページ余に及ぶ大著の内容を、バランスよく紹介するのは、いかに要約とはいえ、単なる羅列にすぎまい。ここでは、「米国は対外政策を必要としているのか?」の中から、独断のそしりを覚悟で、興味を覚えたポイントを順不同で以下に抜き出してみる。
米国中心のグローバリズムの心理的温床 キッシンジャーのいう「屈託なき確信」は、映画「インデペンデンス・ディ」において、比喩というにはあまりにも直截的な形でのストリー展開にも窺うことができる。 映画「インデペンデンス・ディ」では、地球の防衛を担うのは米国しかない、ということが自明の理として想定されている。正義と勇気と力を全て兼ね備えたヒーロー国家、いわば「選ばれし国家」こそが、地球防衛軍の総司令官たる米国の自画像なのだ。円盤を最終的に破壊するのは、民間操縦士の英雄的行為、特攻機による自爆攻撃による。何故にミサイルを打ち込まなかったのか、などと野暮なことは聞くまい。この映画に拍手する市井のアメリカ人の自己酩酊の源はまさにここにあるのだから。 こうした自己酩酊は、アメリカの独立記念日7月4日に円盤への総攻撃敢行直前に行なわれた大統領演説中の次の言葉によりすでに増幅されている。
米国こそが世界を作り上げる正義のパワーである、という神話をかくも単純に、それがゆえに力強く訴えたメッセージを私は知らない。これをというのがはばかられるほど、そのメッセージは直截的である。 米国の対外政策はいかにあるべきか。本書で展開されるキッシンジャーの指摘と具体的政策提言については、次回報告(本シリーズ最終報告)にて扱う。 |
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※関連サイト フラッシュ拙稿「強いアメリカの自画像」
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