2004/02/25 No.60ドイツのエリート大学創設を巡る議論〜競争力回復の切り札になるか
田中信世
(財)国際貿易投資研究所 研究主幹
ドイツでは“エリート大学”創設を巡る議論が熱を帯びてきている。エリート大学創設といってもそうした大学を新たに創設するのではなく、既存の大学の中からトップクラスの大学をいくつか選抜し、選抜された大学に補助金を集中的につぎ込むことによって世界に通用するエリート大学に仕立て上げようというものである。
事の起こりは、シュレーダー首相が今年年頭に打ち出した「2004年をイノベーションの年にする」という構想であった。
政府はドイツの産業立地条件の悪化を食い止めるため、昨年12月に成立した「アジェンダ2010」関連改革法により、社会保障・労働市場改革をスタートさせた。しかし、社会保障・労働市場改革による労働コストの軽減だけでは、産業競争力の抜本的な向上を期待することは難しく、グローバル競争を勝ち抜くためには、特にITやナノテク、バイオテクノロジーなどの分野で最先端の技術を生み出し続ける研究開発体制の構築が不可欠というのが、この構想が提唱された背景になっているものと見られる。
ドイツの大学においては、90年代半ばまでは大学間や学生の間に競争の原理が働かず、知の国際競争力の低下が指摘されてきた。95年にドイツ北部の大学で自己評価、相互評価が始まったのを皮切りに、98年に大学枠組み法の改正により、設置時における認証が全国的に義務付けられ、99年には認証機関が設立されるなど、最近になってようやく大学の質的向上を図る評価・認証制度が整ってきたところである。しかし、アメリカのハーバード大学やスタンフォード大学など政府が手本とする世界の一流大学と比較すると、現状においてドイツの大学が大きく水をあけられていることは否めない。このため、こうしたドイツの大学の水準を世界の一流大学に匹敵する水準に引き上げ、産業競争力の強化につなげたいというのがシュレーダー構想のもうひとつの側面であろう。
首相の構想を受ける形で政権与党である社会民主党(SPD)は、今年1月6日、ワイマールで開催した党幹部会議で次のような「ワイマール・イノベーション綱領」を採択した。
<社会民主党(SPD)のワイマール・イノベーション綱領>
【研究の自由の確保】
法律や規則はイノベーションを妨げることがあってはならない。環境や健康の保護が 必要な分野においては、法律による規制はイノベーションの短かいサイクルに歩調を合わせたものでなくてはならない。
【大学】
われわれは、世界の一流大学の仲間入りをし、アメリカのハーバード大学やスタンフォード大学といった世界の一流大学と競争できるようなトップクラスの大学や研究センターを作り出すことによって、大学の構造を変革したいと考えている。
【研究者】
われわれはトップクラスの研究者にドイツの大学にとどまってもらい、またドイツの大学に来てもらうために、より多くのインセンティブを与えなければならない。その際、実績に応じた報酬(科学賃金協定)といった研究条件の改善が重要な前提条件となる。
【イノベーションのための連帯】
われわれは遅くとも2010年までに国内総生産(GDP)に占める研究開発費の比率を今日(2001年)の2.5%から3%に引き上げたいと考えている。われわれは、産業界が研究開発費の比率を今日の1.7%から2%に引き上げることを期待している。公的資金による研究開発費の比率は今日の0.8%から1%に引き上げる予定である。
上記綱領でうたわれた「研究の自由の確保」は、現行の法律による規制によってドイツのバイオや遺伝子など研究が大きく制約されている現状を改善することを目指したものである。 また、「大学」の項で提唱されているのがいわゆる「エリート大学」の創設であるが、エリート大学創設とともに、マックスプランク研究所、フラウンホーファー協会研究所などドイツの研究開発の分野で大きな役割を担ってきた国立の研究所の充実と、エリート大学とこれら研究所の連携強化も重要な課題としている。
エリート大学をどのような方法で選抜し、政府としてどの程度の支援を行うのかについての議論はまだ始まったばかりである。この点に関して、ブルマーン連邦教育相(SPD)は1月26日に連邦教育省の主催で開催されたイノベーション会議「明日のドイツ」における挨拶で、エリート大学の地位獲得競争は始まったと述べ、2006年から5年間にわたり最もランクの高い大学5ないし6校に対して、1校当たり年間5,000万ユーロ(約67億円)の補助金を交付すると表明し、初めて具体的な支援金額の規模を明らかにした。同相は大学以外の国立研究所に対しても支援を強化する意向で、政府との間で研究目標を定めた協定を結び、その枠内で5年間にわたり一定の補助金を交付するとしている。また、同相はエリート大学選考の第一段階として、今年の夏までに学術会議に委託して上位10大学を選ぶとの考えも示している。
エリート大学構想においては対象となる大学の選考に加え、今後最も大きな問題となるのはエリート大学に対する補助金の財源の確保の問題であろう。財政事情の苦しい中で財源をいかに確保するかという問題で議論が白熱するのは必至で、その過程で現在無料となっている州管轄の大学の授業料の有料化も今後大きな争点になるものと思われる。
一方、「研究者」の待遇改善でSPDが目指しているのは、いわゆる「科学賃金協定」(Wissennschaftstariff)の導入によって研究者の賃金を研究実績に応じて取り決めることである。ドイツの大学の多くは一部の国立大学などを除き州政府の管轄する大学がほとんどであるため、研究者の賃金は公務員の賃金協定のベースで決められており、これでは研究のインセンティブが働かないというのがSPDの主張の背景になっている。もっとも、「科学賃金協定」は一部の州ではすでに導入(あるいは導入を決定)しており、首相の給与より高い給与を支給されている研究者もいるとされているが(ハンデルスブラット紙、2004年1月9日付)、「科学者賃金協定」を導入した州は現時点でブレーメン、ラインラントプファルツ、ニーダーザクセンの3州にとどまっており、いずれも制度を導入(あるいは導入を決定)した時点でSPDが政権に就いていた州である。上記3州以外の州にも「科学者賃金協定」を広げたいというのがSPDの主張である。
エリート大学創設構想は、大学関係者、研究所、政界などからニュアンスの違いはあれ、「正しい方向」としておおむね肯定的に受け止められているが、上記「ワイマール・イノベーション綱領」に見られるように、エリート大学の創設構想そのものはまだ漠然とした「構想」の域を出ていない。政府は今後、学識経験者や財界人からなる諮問委員会を組織して、計画の具体化を急ぐことになると見られるが、ドイツの産業競争力回復の切り札として、実現に向けて激しい議論が続けられることになろう。
なお、現在(2001年2月現在)、ドイツには下表に示すとおり、合計355の大学がある。これらの大学は、連邦防衛大学といった一部の国立大学を除いて、ほとんどすべてが各州の管轄する州立大学であるが、50以上の私立大学も含まれている(ハンデルスブラット紙、2004年1月6日付)。ドイツにおける私立大学の設立は大学の評価・認証制度がスタートした90年代末以降急増しており、ブレーメン市とアメリカのライス大学が提携して設立され、英語で授業を行うブレーメン国際大学(ブレーメン州、サイエンスとアートの2学部、2001年に開校)、国際的に通用する経営学修士MBAの養成を目指した大学院大学シュツットガルト経営工科大学(バーデンヴュルテンベルク州、98年開校)など、いずれもグローバル時代に通用する人材の養成を目的としているのが大きな特徴となっている。
表 ドイツの大学 (2001年2月現在)
学校数 | 学生数(1,000人) | |
総合大学(Universitaeten)注1) | 91 | 1,187 |
総合大学・総合単科大学(Univerisitaet-Gesamthochschulen)注2) | 7 | 142 |
教育大学(Paedagogische Hochschule) | 6 | 15 |
工科大学(Techinische Hochschule) | 16 | 2 |
芸術大学(Kunsthochschule) | 50 | 31 |
専門大学(Fachhochschule) | 156 | 452 |
行政専門大学(Verwaltungsfachschule) | 29 | 33 |
合 計 | 355 | 1,860 |
注2)総合大学・総合単科大学は、総合大学と各種単科大学を組織的にひとつに統合し、それぞれのカリキュラムに基づいて従来どおりの教育を行うもの。1976年の連邦高等学校枠組法に基づいて創設されたが普及せず、現在7校にとどまっている。
(資料)連邦統計局、Statistisches Tshrbuch 2002より作成。
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