フラッシュ32

2002年3月14日

強いアメリカの自画像(その6)
――軍事大国の「恍惚」と「不安」――
国際貿易投資研究所
研究主幹 木内 惠

撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり
ヴェルレエヌ

 唯一の軍事超大国にとっての「恍惚」とは何か。他を圧倒する力の保持である。世界の秩序を変え得るパワーの保持者としての特権的地位への自覚である。では、不安とは?

キッシンジャーの世界観

 米国の対外政策はいかにあるべきか。本報告シリーズ(その5)「マキャベリとキッシンジャー」にて紹介した「米国は対外政策を必要としているのか?」と題するキッシンジャーの近著に戻る。
 キッシンジャーが「ブッシュあて君主論」の中で、米国の対外政策のあり方を論ずるに当たって拠り所とした基本的な世界観はいかなるものか。マキャベリが道徳からの離脱を説く稀代のリアリストだとすれば、現代のリアリストたるキッシンジャーの政治理論は、勢力均衡論に基づく現実主義的世界観にその基礎を置く。以下の指摘と具体的政策提言には現実主義者としてのキッシンジャーの面目躍如たるものがある。

(1)現代の複雑な国際システムの下では、米国は世界のソーシャル・ワーカーや世界の教師然として対外政策を遂行することはできない。

(2)外交は環境により支配される。外交とは「可能性の術」(the art of possible)、「相対論の科学」(the science of the relative)。道徳原則は、普遍的、恒久的だが、それが歴史的条件を無視して適用されるならば、苦痛を増す(たとえば、ボスニア、コソボがこの例)。

(3)「国際的責務から身を引こうとする欧州」と「米国と競いながらグローバルな役割を追求しようとする欧州」との間を上手く操縦(navigate)することが米国にとっての賢明な政策だ。

(4)中国との正面衝突(confrontation,)は最後の手段であって、望ましいオプションではない。

 上記(1)では国際社会へのあるべき関与姿勢を説き、(2)では、外交における倫理や道徳原則の限界を示唆する。また、(3)(4)では、いずれも、文字通り「可能性の術」、「相対論の科学」に立脚した対欧、対中アプローチの要諦を指し示している。

人道的介入は是か非か

 ここで(1)(2)を改めて取り出して考えてみると、これらは、例えば人道的介入の可否を決する際の基準を示唆しているようにも思われる。人道的介入を一言でいえば、人権保護等の人道を御旗に掲げた対外武力介入ということになる。そして、人道的介入に対する姿勢こそが、ブッシュ現共和党政権とクリントン前民主党政権との違いが最も大きく表れた分野の一つであった。

 両政権の違いの残照は、2000年大統領選挙キャンペーン時のブッシュ対ゴアの論争にも表れていたことを思い出す。2000年10月の第2回テレビ討論会で、ブッシュは「米国は世界のあらゆる人々の求めに応じることはできない」、「国際問題に関与するにあたっては、それが国益に合致していることが大事だ」と述べた。これに対しゴアは「世界最強の軍隊を持つ米国は必要な場合には海外の紛争にも積極的に関与していくべきだ」と述べ、両者の対外介入にたいするスタンスの違いを際立たせた。

 ブッシュとゴアの対照的な2つアプローチは、米国外交路線のやはり2つの原則をそれぞれ象徴している。前者の対外介入を出来る限り少なくしようとする立場は孤立主義
(注)を、後者の積極的対外関与を是とする立場は国際主義をそれぞれ代表する。建国以来の米国の対外政策はこれら相反する原則の相互作用や両者のバランスに立脚して展開されてきたといっても過言ではない。人道的介入は、後者の国際主義から導き出される政策の一つと言ってよいだろう。人権や民主主義の理念を掲げた対外介入に踏み込んだクリントン外交に対してブッシュがキャンペーン時に批判の矛先を向けたのは、単なる選挙戦術の一環ではない。人道的介入への疑念提起でもあった。

 リアリストたるキッシンジャーにとって、人道的介入は容認できるところではあるまい。実際、キッシンジャーはこれまでも、クリントン政権の対外介入のあり方を厳しく批判してきた。Foreign Affairs 誌1999年5/6月号にキッシンジャーが寄稿した「オールド・レフトとニュー・ライトの狭間で」と題する論文がその代表例。

(注)孤立主義について詳しくは拙稿「21世紀米国の対外政策―ブッシュ新政権は孤立主義を否定」(ITI季報 Winter 2001)を参照

あたかも多極世界にいるように

 それでは、米国は今日の世界で、いかに身を処すべきか? キッシンジャーの答えはこうだ。

「米国は自らの覇権的地位を認識した上で、あたかも多極世界にいるように対外政策を遂行すべきだ。」

 キッシンジャーのメッセ―ジの核心は、@米国は自らの覇権的地位を認識せよ、A対外政策遂行に当たっては多極世界の一員のごとく振舞うべし――の2点に集約されるといってよい。300ページを超える大著のメッセージの核心を、少なくとも私はそう読んだ。

 自らの力が強大であればあるほど謙虚に振舞うべきだ、というのがその提言の趣旨である。一見すると、これは世なれた老人が若者に与える人生訓のように響く。「実るほど頭のたれる稲穂かな」のありふれた格言を思い浮かべる人がいるかもしれない。だが、キッシンジャーの提言は単なる身過ぎ世過ぎの術ではない。

 「人間というものは危害を加えられると思いこんでいた相手から親切にされたり恩恵を施されたりすると、そうでない人からの場合よりはずっと恩に感ずるものである。」――マキャベリのこの言葉は キッシンジャーの提言に通じるものがあるような気がしてならない。覇権保持者があたかも覇権など持っていないように振舞うことが自らの覇権をさらに強固にする。キッシンジャーの箴言をこう読み取るのは、うがち過ぎか。

軍事大国の「恍惚」と「不安」

 だが、キッシンジャーの提言とマキャベリのそれとが決定的に違う点がある。それは、キッシンジャーのメッセ―ジは今日、世界唯一の超大国として「選ばれし国家」たる米国への忠告であることだ。「選ばれし国家」は、選ばれしものの「恍惚」だけでなく、「不安」をも引き受ける宿命を負わざるを得ない。かかる国へのメッセージを単なる処世の訓というべきではあるまい。

 世紀末。その語は爛熟した時代の空気を醸し出す。世紀末のフランスに生まれたヴェルレーヌ。その鋭利な感性は、時代の深部と共振した。時代に選ばれた「恍惚」に酔い、時代が孕む「不安」に感応する。これが世紀末の子、ヴェルレーヌの感性であった。

「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」――冒頭に掲げた一節は、実は太宰治が引用したヴェルレーヌの詩の一部である。太宰治はこの詩を特に愛し、短編集「晩年」中の「葉」の冒頭にプロローグとして用いている。太宰の故郷にある芦野公園の登仙岬に太宰を偲んで建立された文学碑にもこの詩が刻まれている。津軽の名家に生まれた太宰がやがて上京し、そこで味わう名家出の栄光と田舎者としての自己発見の悲哀。こうした屈折した心情が太宰文学独特の調べになったという。

 ヴェルレーヌと太宰の感性は、今日の米国の姿に深いところでつながっているようにも思われる。覇権の「恍惚」に浸りながら、次に来る時代への「不安」を感知する姿は、現代米国の一様相、一断面ではないだろうか。同時に、これは、ケネディの無常観ともつながっているように思われる。「米国の一極支配は永続するや?」「否である」――これがポール・ケネディの一問一答であった。いかなる国も覇権を永続的には享受できないととの基本認識において、キッシンジャーとケネディの世界観は交わる。


※関連サイト

フラッシュ拙稿「強いアメリカの自画像」
  1. フラッシュ25 「その1―インデペンデンス・デイの寓意―」
  2. フラッシュ26 「その2―米国の圧倒的軍事「覇権」が意味するもの―」
  3. フラッシュ27 「その3―「大国の興亡」と「舞い降りた鷲」―」
  4. フラッシュ28 「その4―軍事力と経済力の方程式―」
  5. フラッシュ29 「その5−マキャベリとキッシンジャー」

フラッシュ「同時多発テロ特集」終了のお知らせ


「同時多発テロ特集」としての記事掲載は23本を数えましたが、テロ発生から半年を経過したこの機をとらえ、本記事をもって「同時多発テロ」特集を終了します。
今後は通常のフラッシュ欄に戻ります(その第1号はフラッシュ31「貿易戦争が始まる? 米国、鉄鋼輸入にセーガード発動」として3月13日に掲載)。通常のフラッシュ欄の中で、テロ関連記事をも適宜掲載する予定です。
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