ITIコラム

2014年4月24日

 

大連、丹東、瀋陽への新旧旅日記
(2014年3月22日~26)

(一財)国際貿易投資研究所
研究主幹 江原規由

   
 

下の左の写真は1994年、右は2014年の瀋大(瀋陽-大連間)高速道路のワンカット・シーンである。撮った時期はそれぞれ5月と3月末。季節、カメラの角度、倍率に若干の相違はあるものの場所は同じである。この二つの写真は、20年間の中国の変化を有弁に物語っている。

写真をよく見ると、瀋大高速道路の車線が片側3車線から4車線になっていること、その高速道路を跨ぐ高架橋が出来ていること、そして、2014年の写真はかなり霞んでいることがわかる。この高架橋の上を、今、高速鉄道(日本の新幹線に相当)が走っている。背景がはっきりしないのは多分に大気汚染の影響を受けているからである。4車線に増えたことは、交通量の増加に備えての拡張であったに違いない。

2014年3月22日から26日まで、遼寧省の大連、丹東、瀋陽をまわってきた。筆者が大連に赴任したのは1993年3月21日であった。それから、ちょうど21年が経った。その間の変化には行く先々で“竜宮から戻った浦島太郎”を余儀なくされた。その一端をスナップ写真を中心に紹介したい。

大連から丹東へ

大連から丹東までは300余kmあるが、すでに高速道路が通じており交通の便は悪くない。中国東北地区は、ロシア、北朝鮮と国境を接しているが、その国境沿いを北に走る鉄道はまだなく、高速道路も大連‐丹東間以外は出来ていない。今回、6年ぶりに大連‐丹東間の高速道路を走ったが、高速道路に並走する高架橋が建設中であった。この高架橋は、将来、黒竜江省牡丹江市から大連に至る高速鉄道を走らせるためのもので、現在、大連-丹東間で建設中である。日本列島とほぼ平行に走るこの鉄道のことは資料などで聞き及んでいたものの、建設最中の工事現場を目にしたのは今回が初めてだ。あっという間に過ぎ去る高架橋を仰ぎ見た時、ここまで進んだのかと、中国の変化の速さに改めて驚かされた。この上を高速鉄道が走れば、遼寧省の物流と生活の便が大きく改善されることだけは間違いないであろう。やがて高架橋の上を走る電車から農村地帯を下に見る景色はどんなであろうかと、今、高速道路を走っているこの車窓から見る景色と思わずだぶらせてしまった。


鴨緑江の流れる丹東

丹東から鴨緑江を隔てて北朝鮮の新義州が望まれる。大連時代に見た鴨緑江の流れに変化は感じられなかったが、対岸の新義州は当時より元気を失っているようであった。鴨緑江沿いに軒並み店を構えるある北朝鮮レストランで昼食をとった。かつてと比べ、サービスに愛想がなくなっている。前は、店内で写真を自由に撮らせてくれたのに、今回はダメとのこと。この前来た時に、従業員が“ここで3年働いたら北朝鮮に帰らなくてはいけない”といっていたのを思いだし、“ここで何年働くの”と聞いたら,たどたどしい中国語で“1年”との答えが返ってきた。

総じて、丹東市は、他の中国の地方都市に比べ、新たな高層ビルは増えてはいるものの、それほど大きな変化は感じられなかった。化粧直しした商店街に、今も往時の様子を感じることができる。中国の変化から取り残されたような街並みに“ホッ”としつつ、街路樹の銀杏並木を見つめた。戦前、丹東は安東と呼ばれ、日本から船と朝鮮半島を縦断する鉄道を乗り継いで中国大陸(満州)に入る玄関口の一つであった。その当時、日本人が植えたものが、植え替えられたものもあるが、今こうして車窓から眺めている街路樹の銀杏並木である。時代や様子は変わっていても、変わらないものもあるのは嬉しいものだなどと、ちょっとしたセンチメンタリズムに浸ってしまった。

〇毛沢東像が指し示すのは現代のシルクロード

丹東駅前には、右手を差し出している巨大な毛沢東像が立っているが、この毛沢東像に会うたびに中国を感じてしまう。瀋陽の中山広場にもこれよりさらに大きい毛沢東像がそびえているが、いずれもその右手が何を指し示しているのか、いつも現場で想像するのを楽しみにしている。今回、丹東駅前で毛沢東像を見て、彼が指差しのは、「現代のシルクロード」ではないかと思えた。今、習近平国家主席をはじめ、中国指導部は、ことあるごとに、中国から中央アジアを経て欧州に至る「シルクロード経済帯の建設」を提唱している。やや誇張的に言えば、「シルクロードFTA」の建設とでもいえようか。

丹東で毛沢東像を見て、なぜ「現代のシルクロード」のことを感じたのかというと、初めて丹東に来た1994年に参観した展示会で配られた小冊子のことが思い出されたからである。その小冊子を手にした感慨を当時次のように書き残していた。

〇もう一つの「欧州ルート」(回想)

北朝鮮と中国の国境を流れる鴨緑江沿岸に、中国最大の北朝鮮国境都市の丹東市がある。同市は酢酸シルクの産地であり、毎年5月頃、「シルク祭」が開催される。筆者がこの「シルク展」を参観し折、市政府が配布した小冊子の中で、挙世瞩目的中国十大工程之一 ~(北)京丹(東)国際高速公路 (世界が注目する10大プロジェクトの1つ~北京-丹東国際高速道路))のことが中国語と英語で紹介されていた。将来、丹東が世界の交通の要衝になることを紹介しようとしたものであろうが、このルートは、出発点が東京、日韓海底トンネルを通ってソウル、ピョンヤン、丹東、北京、南アジア、中近東、モスクワ、そして英国が終点となっている。今日では、技術的には建設可能であるし、英国にはすでに海底トンネルが通じている。国際間の複雑な問題もあって実現までには多く障害や技術的難関を乗り越えなければならないとはいえ、中国東北地区にヨーロッパへ通じる道のことを夢見ている地方都市があることを知り、早く実現すればよいと、小冊子を見てつくづく思った。今後、世界経済が急速に変化する中で、その日は意外と早く来るかもしれない。

20年前と比べると、中国全土で高速鉄道が建設中であり、すでに完成された高速鉄道の総延長距離は世界一となって久しい。中国全土の高速道路網はさらにしかりである。

中国は、高速鉄道と高速道路をさらに延長する予定にある。就任以来、初めて欧州(2014年3月22日から4月1日まで、オランダ、フランス、ドイツ、ベルギーの4か国、EU本部、国連ユネスコ本部)を訪問した習近平国家主席は、ドイツ滞在中視察に訪れたデュースブルク港で、貨物を満載した列車(中国重慶からカザフスタン、ロシア、ベラルーシ、ポーランドを経由してきたアジア・欧州大陸横断列車)の入港に立ち会った。2013年年9月、「シルクロード経済帯」の建設を提唱した習近平国家主席は、デュースブルク港の視察でその意義を世界にアピールしている。その日は着実に近づいている。少なくとも、新幹線と高速鉄道を乗り継いで日本から欧州に行くことが白日夢ではなくなりつつあることだけは確かであろう。そんなことに思いを馳せらせつつ、丹東を後にした。

丹東から瀋陽へ

瀋丹高速道路を走る車は意外と少なかった。時折、高速道路と並走して走る列車に出会う。鉄道ファンであればたまらない光景であろう。ここでも、高速道路を跨ぐ高架橋が建設中であった。この高架橋を高速列車が走るようになった時、どれほどの乗客が利用するものかと、隙すきの高速道路を見て思った。今の中国では、成長率の高さではなく、その質の向上が求められているが、ここを走る高速鉄道に乗る人の乗車率が、経済がバブル化しているか否かの判断になるのではないだろうか。

瀋丹高速道路を走る車窓からは、今、中国が大々的に進めている都市化の現実がまざまざと展開しているのを目にすることができる。中国の都市化とは、地方の中堅都市に一定の人口を集中させることで、経済発展の新たなエネルギーとし、かつ、民生の向上を目指すということにほかならない。中国語で城鎮化(城〈都市)と鎮〈町村〉の一体化〉といわれるゆえんである。吸収する人口は、主に農村地区からの人々である。

車窓から城鎮に林立するすさまじい数のクレーンと無数の建設中のビルを見ていると、中国の都市化の本質はビル建設ラッシュにあるようだと、改めて実感させられた。住宅用のビルが多いと思われるが、やはり、入居率で地方経済のバブル度がわかるような気がした。

車窓からは、農村風景も目に入ってくるが、驚いたことに、その光景は昔のままであった。相変わらずのどかな風景をのぞかせてくれてはいるが、何か取り残されているような一抹のさみしさのようなものが漂っている感じにとらわれてしまった。都市化は、中国の経済、社会を大きく変えることは間違いない。都市化で『中国の形』が変わるといってもよいであろう。果たして、中国人はどう変わるのであろうか。

  

瀋陽に近づくと、本渓など地方を代表する都市を通る。かつての本渓では、市内を見下ろす山頂に建てられた5本の煙突からもくもくと噴煙が上がる光景を目にすることができた。当時、この町は人工衛星から黒い点にしか見えないといわれていたほど環境が汚染されていた。さすがにその光景はなくなっていたが、中国におけるPM2.5の汚染の現実が頭をかすめた。ただ、山の斜面に、近年植林されたと思われる若木がいたるところで成長していたのには、想像していなかっただけにびっくりさせられた。

瀋陽にて

“瀋陽は肥大化している”。そんな感慨をもって夕刻前の瀋陽に入った。建設中のものも含め高層ビル群の林立に圧倒される思いがした。高さと威容で瀋陽を威圧していたテレビ塔も、高層ビル群の狭間で小さくなっていた。ビルの合間に、あと数時間で沈もうとしている太陽を直視することができるほど、瀋陽には得体のしれないフィルターがかかっていた。蜃気楼都市、そんなイメージがした。

まず、一夜の宿に向かった。北朝鮮との合弁四つ星ホテルだ。入り口には、チョゴリを着た従業員がゲストを迎えていたが、彼女の隣にいた黒縁の眼鏡をかけた江澤民似のホテル経理らしき人から、“日本人ですか”と聞かれた。

ほとんどのホテル従業員が北朝鮮からの人という。部屋はよかったが、どうにもタバコ臭かったので、部屋替えをと電話したら、すぐ禁煙フロアーの部屋に変更してくれた。部屋に設置されているTVはサムスンであった。やや愛想に欠けるが、サービスも朝食もよかった。

6年ぶりの瀋陽。行って見てみたいところがあった。瀋陽駅(南駅)、中山広場、瀋陽故宮およびその周辺である。瀋陽がどう変化しているのか、直に定点観測してみたかった。

昔、瀋陽は奉天と呼ばれ、日露戦争や日中戦争の舞台となるなど日本とは浅からぬ縁がある。また、中国最後の王朝となった清朝が北京に遷都するまで首都を構えた由緒ある地であり、改革開放以前は、「共和国の長子」(中華人民共和国の長男)といわれ、中国の工業を支えてきた地である。今や、中国を代表する国際都市に変貌しようとしている。

訪れた瀋陽駅(南駅)、中山広場、瀋陽故宮に大きな変化があったとは思えなかったが、その周辺が激変していることから、これらが別なところに引っ越してきたのではないかと思えた。瀋陽駅の駅舎は、満鉄時代に東京駅を模して日本人の設計により建造された赤レンガ造り。改装しており、その赤レンガにすがすがしさを感じた。6年前に来た時は、この駅から高速鉄道で北京に向かったことが思い起こされた。地元の人は、この瀋陽駅を瀋陽南駅と呼んでいるが、揮南地区に建設された新駅舎に、瀋陽南駅の名は譲られた。中山広場の毛沢東像は周囲の高層ビルに圧倒され丈が縮んだかのようであった。その右手が指し示しているものは、瀋陽故宮の前に高々と聳える超高層ビルではないのかと、その場所に行った時、ふと思った。

瀋陽故宮は、北京の故宮に比べる由もないが、故宮を包囲している赤壁に関していえば、瀋陽故宮のほうが、日常をよく映し出しているような感じがした。赤壁の前を2人の老人が歩いて行った。その姿は赤壁によく似合っていた。


この歴史ある景観と対照的な高層ビルが故宮大手門の真前に聳えていた。その超近代的な高層ビルは、故宮のつくりとあまりにもかけ離れ過ぎていると、圧倒されつつも何度も仰ぎ見ないではいられなかった。このビルを含め、建設中の数々の高層ビルに、どんな人が、どんな企業が、どれだけ入ることになるのだろうかと思うと、夢でも見ているのではないかとの気持ちに襲われてしまった。

その夢はあっという間に覚まされた。大手門を出る時にみたその超高層ビルは建設途上で放置されていたのだ。1、2階に店舗らしい構えはあるようにも見えたが、正門は閉ざされ人影はなかった。

中国には、「鬼城」という言葉がある。最近頻繁にマスコミに登場するが、「ゴーストタウン」のことである。中国語で「鬼」とは「お化け」のことである。都市化の推進で、高層ビルを建てるのもよいが、その一方で「鬼城」もさぞ多いようだと実感させられた。

都市開発の名のもとに進められているビル建設ラッシュには、腐敗、汚職、賄賂など不正、犯罪行為が後を絶たない。現政権もその取締や撲滅に躍起となっているが、「上に政策あれば、下に対策あり」がまかりとおっており、なかなか成果が上がらないのが現実だ。また、ビル建設には、セメント、鉄鋼など有限な資源が大量に使われることから、「鬼城」の出現はお金の無駄遣い以上に、世界の資源の浪費でもある。

毛沢東は、今からちょうど65年前、“農村から都市を包囲せよ”と号令し、中国独自の革命路線を成功に導いたとされる。今日、中国は都市から農村を囲い込む都市化で経済の発展と社会の安定を実現しようとしている。時代の潮流をとらえた政策ではあるが、同時に、中国経済・社会の抱える矛盾が噴出しているのも事実である。中山広場の毛沢東像の右手は、故宮と隣接して建つ超高層ビルを指さして、“もう一度原点を見つめよ”と諭しているかのように思えた。

瀋陽には6年前にはなかった地下鉄が開通していたが、人の流れに大きな変化はなかったように思えた。瀋陽のシンボルであるテレビ塔の上から瀋陽市を一望し、6年来の変化を探そうと思ったが、あいにく、修理改装中で閉まっていた。街中には、眼科、耳鼻咽喉科の看板が目立ったが、大気汚染の深刻な影響を垣間見た思いがした。遅めの昼食を瀋大高速道路のサービスエリアでとることにして、瀋陽を後に一路大連への道を急いだ。

瀋陽から大連へ

瀋陽‐大連間はほぼ400Km。片側4車線の高速道路は、制限速度110㎞を超えて走ってもスピード感がない。寄り道してみたいところが多々あったが、今回はそんな時間的余裕はなかった。瀋大高速道路からの眺めからその地に思いを馳せた。中国では、高速道路、一般道でも、並木が実にいい。特に、瀋大高速道路と並走、横断する一般道の並木の中を走る横長のトラックは、見ていると牧歌的になってくる。今回も、その光景は変わっていなかった。ただ、かつてその並木に作られた鳥(カササギ)の巣が減っているのには驚かされた。環境が変わったことを物語っているのであろうか。

また、大連から黒竜江省のハルビンまで通じている哈大高速鉄道の高架橋が瀋大高速道路と並行、時に横断して走っており、かつての車窓から見る牧歌的風景を邪魔していたのが気になった。

これまで、瀋大高速道路を何度往復したであろうか。そのたびに、見るのを楽しみにしていた光景があった。鞍山製鉄所の煙突からももくもくと噴出される7色の煙である。7色とはやや言い過ぎかもしれないが、橙色、黄色、黒色、白色などの排煙がたちのぼり、表現のしようのない色合いを紺碧の空に描く光景は圧巻であった。今では、環境汚染の源とされ許されない光景であろうが、製鉄所はすでに渤海に面する営口の地に移転していた。余談だが、渤海湾は、今や中国のみならず世界を代表する鉄鋼産業の集積地となっている。

車窓から見た風景で感心したのは、鉄塔の多さであった。送電線もさることながら、携帯電話などの電波塔は、6年前にはこれほど目にすることはなかった。さらに、瀋大高速道路を走り、冒頭の写真にある瀋大高速鉄道の高速鉄道の高架橋の下をくぐった時、中国東北地区は1日経済圏を形成しようとしていると実感した。大連のホテルに着いたのは午後4時過ぎ、1泊2日の旅であった。

大連にて

大連には、1993年から98年まで5年半ほど赴任していたことがあり、大連の市街地は隅々まで走破しており、知り尽くしていると思っていた。今回、6年ぶりの訪問でその自信が崩れ去ってしまった。車で食事に行ってレストラン前で降りた時、“今、どこにいるのだろう“と思ってしまった。周りの様子もかつての風情を失っていたが、それ以上に、高層ビルに視線を阻まれて方向感覚が失われているようだった。ここまで変われるものかと、唖然とさせられた。浦島太郎の逸話を思い出さずにはいられなかった。

〇中国の都市化を先取りした大連

1990年代、大連は「北方香港」を目指した都市づくりを急ピッチで展開していた。その当時、流行ったのが、「大連長高了、緑多了」(大連は背が高くなった、緑が増えた)のキャッチフレーズであった。「背が高くなった」とは、高いビルの建設が増えたということにほかならない。今や、中国各地で展開されている「都市化」は中国の最優先政策となっているが、大連は今日の都市化を先取りしていたといえる。

下の2葉の写真は大連市内の小山から撮ったものであるが、20年間成長し続けた大連の昔と今を見ることができよう。

〇失われつつある「アカシアの大連」

大連は、日本と歴史的にも、経済的にも極めてなじみ深い都市だ。日本人の大連に対する思いを集約しているのが「アカシアの大連」だ。6年ぶりの今回、その大連の街並みを飾ったアカシア並木をほとんど目にすることができなかった。大連市の新陳代謝は、アカシア並木に限ったことではない。かつて、そして、つい最近まで多くの日本人を迎え、見送った大連港の待合室(プラットフォーム)の建物が跡形もなくなっていた。上野駅に模して造られた大連駅も新築されることになっており、その往時の姿を消すことになる。化粧直しをして原型を残している瀋陽駅とは対照的だとふと思った。古くからある路面電車は今も健在で市民の足となっているが、その懐かしい姿も、今年(2014年)年末に地下鉄が開業されれば、目にすることがなくなってしまうであろう。

大連市内から、郊外の大連経済技術開発区、大連保税区など対外開放・外資導入拠点や大連の衛星都市である金州などを訪問した。日曜日であったためか、人込みの多さは往時と変わらなかったが、車とマンションの販売広告の多さには改めて驚かされた。金州の繁華街では、大連時代、よく買って食べた焼き芋が当時のままに売られていた。腹も減っていないのに郷愁に任せて買ってしまった。その横をロバが荷車をひいて通り過ぎて行った。近代と混在する風景が、郊外にはまだ残っていた。

大連から姿を消したものもあれば、新たに姿を現したものもある。その一番手は、まさに威容の二字がぴったりのダボス夏季会議場であろう。初の夏季ダボス会議が大連で開催されたのが2007年9月。ダボス会議は、世界経済フォーラムが毎年1月にスイス東部の保養地ダボスで開催してきたが、2007年、大連で初の夏季ダボス会議が開催された。世界が直面する重大な問題について議論する場となっており、大連がその開催地となったことの意義は大きい。すなわち、世界経済で成長の著しい東アジア、その中心が中国、そして中国の経済成長の拠点が北上しているという時代の潮流をダボス夏季会議は先取りしたといえる。なお、夏季ダボス会議は大連と天津で毎年交互に開催されている。

大連の新陳代謝はまだまだあるが、日本的要素が大連で目立たなくなってきていることがその最たるものと感じた。今の日中関係を大連というフィルターを通してみているような、そんな感覚にとらわれた大連であった。

そして、中国の夢