フラッシュ113
2008年6月26日
 

アイルランドのリスボン条約否決の波紋

 
(財)国際貿易投資研究所
研究主幹
   田中 信世
 

  6月12日に実施されたアイルランドの国民投票でのリスボン条約批准否決の結果を受けて、19、20日に開催されたEU首脳会議は、引き続きリスボン条約の存続を探ることで合意し、今年10月に開催される次回の首脳会議で再度協議することを決めた。

  アイルランドでのリスボン条約否決後、EUでは事態の収拾についてさまざまな意見が飛びかった。いろいろな意見を整理すると概ね次の3点に集約できるように思われる。

  (1)ひとつは、リスボン条約を廃棄し新たな基本条約制定のための交渉を行うべきという意見である。しかし、この意見は、過去にEUが憲法条約からリスボン条約に至るまでに費やしてきた時間やEU加盟各国の膨大な努力を考えると、現時点での収拾の方策としては非現実的との見方が大勢を占めているようである。

  (2)もうひとつの意見は、これまでも、マーストリヒト条約批准時などに折にふれて浮上していた二元統合論である。すなわち、二元統合論は、欧州統合を一元的に進めるのではなく、司法、安全保障、移民政策など全加盟国が共同歩調をとって統合を進めることが困難な分野では、統合が可能な加盟国が核(Kern Europa)となって先行して統合を進めるという考え方である(注1)。しかし、こうしたEUの二元統合論に対しては、ドイツのメルケル首相がいち早く反対を表明したほか、今年7月からの次期EU議長国であるフランスのサルコジ大統領も「われわれはリスボン条約の批准が終わった国、あるいはこれから批准する国と、リスボン条約の批准を拒否した国との間で隔たりを設けるべきではない」(オーストリアのDie Presse紙・電子版2008年6月18日付)と述べ二元論に反対する考えを表明している。そして、何よりもリスボン条約を否決した当事国であるアイルランド自身が「アイルランドは引き続き(統合)欧州の中心にとどまりたいと考えている」(同上紙)と述べていることから、当面、二元統合論の考え方が前面にでてくる可能性は小さいものと考えられる。

  (3)一方、事態を打開する第3の方策として提案されたのが、あくまでもリスボン条約成立に向けた努力を継続すべきという意見である。アイルランドでの否決直後におけるバローゾ欧州委員長の「リスボン条約はまだ死んでいない」という発言はまさにこの意見を代表したものといえよう。すなわち、第3の方策は、@まだリスボン条約を批准していない7カ国(表参照)については批准手続きを継続する、Aそしてアイルランドを除く26カ国がすべて批准をすませたうえで、Bアイルランドに対して再度国民投票を実施するよう働きかけるというものである。こうした考えの背景には、EU憲法条約を修正したリスボン条約までもがアイルランドでの否決をきっかけに葬り去られるというようなことになれば、EUの今後の統合の深化に大きな影響を及ぼすことはもちろんのこと、EUの威信低下も避けられないという大きな危機感がある。

  リスボン条約の批准状況(2008年6月24日現在)

批准済み

オーストリア、ブルガリア、デンマーク、エストニア、
フランス、ハンガリー、ラトビア、ポルトガル、
ルーマニア、スロベニア(10カ国)

議会で承認済み

フィンランド、ドイツ、ギリシャ、リトアニア、
ルクセンブルク、マルタ、ポーランド、スロバキア、
イギリス(9カ国)

議会で批准手続き中

ベルギー、キプロス、イタリア、スペイン、スウェーデン、
オランダ、チェコ (注)(7カ国)

国民投票で否決

アイルランド( 1 カ国)

(注)チェコは、議会での条約批准の是非についての憲法裁判所の判断を仰いでおり、裁判所の判決が出るまで批准手続きを停止する方針を明らかにしている。
(出所)EUホームページ、“Treaty of Lisbon”の“In your country”より作成

  上記はいずれも、アイルランドの国民投票での否決直後に見られた意見であるが、6月19、20日のEU首脳会議での結論は、アイルランドでの再度の国民投票の実施については触れていないものの、概ね上記(3)の方法での事態の収拾を目指したものと思われる。しかし、こうした方策をとるにしても、不透明な点は残る。

  そのひとつは、上記EUの資料から作成した表の中で「議会で批准手続き中」の中に分類されているチェコが、「議会での批准手続きの是非をめぐる憲法裁判所の判断が出るまで批准手続きを停止する」ということを首脳会議の場で明らかにしたことである。もともとチェコのクラウス大統領は加盟国の主権を損なう形でのEU統合に対する反対論者として知られており、次期EU議長のサルコジ大統領がいち早くプラハ入りしてチェコに“翻意”を促したほか、フランスとともにEU統合の推進役となっているメルケル独首相も近くプラハ入りしてチェコを説得する予定と伝えられている(日本経済新聞、2008年6月23日付)。しかし、ことが憲法裁判所の判断ということになると、憲法裁判所の判断次第ではチェコでの批准の手順が大きく狂ってくることも考えられる。仮にチェコでも批准が難しいという事態にでもなれば、冒頭に述べた(1)の方策がにわかに現実味を帯びてくるという事態も考えられよう。

  アイルランドの国民投票のやり直しについても不透明感が大きい。アイルランドが国民投票をやり直すにあたっては(仮に国民投票のやり直しを行うとして)、まず今回の国民投票において反対票が投じられた原因は何かについて正確な分析を行う必要がある(注2)。そのうえで、アイルランドが再度の国民投票を実施する場合には、国民投票における批准をより確実にするために、議定書等の形で条約の修正を行う必要が出てくることも予想される。いずれにしても、再投票を実施するまでには1年前後の期間をおく必要があるとみられることから、リスボン条約による新体制への移行は順調に進んだとしても少なくとも1〜2年の遅れが出ることは避けられない見通しである。

  リスボン条約が発効しない場合、同条約で定められた全会一致から多数決制への移行が実現しないため、司法・治安分野などで効率的な意思決定ができないなどの不都合が生じることが考えられる。機構面ではEU大統領やEU外相の創設が遅れることによる政策の一貫性が担保できないといった影響も考えられる。現行のニース条約(2003年発効)では、27カ国の加盟国しか想定していないため、今後のクロアチア等の加盟候補国の加盟交渉にも大きな影響が出てきそうである。

  本稿を作成するに当たって、Die Presse紙(電子版)に目を通していたら、6月19日付の関連の論評記事のタイトルとして“Die Hoffnung stribt zuletzt”という表現が出ていた。直訳すると「希望は最後には死ぬ」であるから、最初、これは「どれだけやっても最後には失敗に終わる」という意味かと思ったが、調べてみたら、これがそうではなくて「事態がどれほど深刻であろうとも、好転するという確信を持ち続ける」という意味であることがわかった。英語でも同種の言い回しがあり“Hope dies last”というらしい。
  リスボン条約をめぐる今後の動きについては、残された未批准国の批准状況や今年10月の次回首脳会議での再協議を見守るしかないが、リスボン条約批准実現のために懸命の努力を続けているバローゾ欧州委員長をはじめ、統合推進派のEU加盟国の指導者の心境を一言で表現するのに、これほど適切な表現はないのではなかろうか。


(注1)単一通貨ユーロの導入においては、@物価、A財政赤字、B為替相場、C長期金利の4つの経済収れん条件を満たした国だけがユーロ圏参加が認められており、この分野では、実態として二元的な統合が行われている。

(注2)EUの調査機関Eurobarometerがアイルランドの国民投票でリスボン条約が否決された直後に実施した緊急の電話インタビュー調査によると、反対理由で最も多かったのは、「リスボン条約についての知識不足(理解が難しい)」であった。それ以外の反対理由としては、「アイルランドのアイデンティティーが失われる」「外交・安全政策上の中立性の維持が難しくなる」「アイルランドから欧州委員会の委員が必ず選ばれるべきである」「アイルランドの租税制度の維持が難しくなる」などであった。