フラッシュ131
2010年1月22日
 

みかん貿易と麗しきバンクーバー

 
(財)国際貿易投資研究所
客員研究員
   佐々木 高成
 

  冬季オリンピックが開催されるバンクーバーはこの街に住んだことのある筆者にとってノスタルジアだけでなく北米の中での特異性という意味でも忘れがたい街である。この街は住めば住むほど日本との絆という点で奥深く、それがこの街や人の魅力になっているという感じがした。州政府や市の関係者、ビジネスマンや学者に至るまで日本に対する深い造詣や持つ人材の厚さには常に驚かされたが、対日関心の高さはカナダだけでなく、アメリカを含めた北米全体でも群を抜いている。ビジネスは言わずもがなだが文芸の分野にもその一例をみることができる。SF作家として日本にも知られるWilliam Gibsonというカナダ人がいる。この作家はバンクーバーに居を構えているが、その作品には近未来の日本を舞台にしたものやIdoru(アイドル)という名前の作品さえある。筆者の子供は当時現地の中学に通っていたが日本の漫画やアニメにたいする生徒の知識レベルは日本並みであったし、日本語能力試験受験生のレベルもカナダ随一の高さだったという印象である。

バンクーバーで食べるみかん
  この季節、バンクーバーのスーパーや八百屋にいくと、日本人には見慣れた温州みかんが並んでいる。日本からの輸入品である。こう書くと、あたりまえじゃないかと思われるかもしれないが、車で1時間南に下った米国では日本のみかんは売られていない。米国は日本のみかんを防疫上の理由で実質輸入禁止にしているが、カナダは柑橘類が取れないので輸入制限していないのである。
  因みにバンクーバーには日本でいう八百屋という感じの店を街角に多く見かける。売っているのは大粒のビング・チェリーやブラックベリー、ブルーベリー、ラズベリー等の地元産果物や野菜である。地産地消型の農産物が多く、まるで日本の「道の駅」と言う感じである。これは基本的にスーパーしかない隣の米国とは異なる点であり、意図的な街づくりの結果でもある。郊外でこうした農産物を生産している農家にはインド、パキスタン系の人が多いのも興味深い。

  ところでカナダにおける温州みかんの輸入の歴史は古く、明治時代に遡る。北アメリカにみかんが輸入された最初の年は1884年とされる。なお、日本の貿易統計を明治初年まで遡って記載している「日本貿易精覧」(東洋経済新報社編纂、昭和10年発行)によれば、密柑が日本の貿易統計に輸出品目として出てくるのは1896年である。(緑茶や生糸は明治初年から登場している。カナダへの輸出総額は1887年から記録があるが、蜜柑の対加輸出まではこの統計では分からなかった)日本の移民がバンクーバーへみかんを持ち込んだのが始まりと言われるが、バンクーバーへの最初の日系移民は永野万蔵で1877年との記録がある。バンクーバーへの日系移民はハワイへの移民(集団移民は1868年)に次ぐ古い歴史を誇る。初期の移民が働いたのは、鮭漁、鮭の缶詰工場(canneryと呼ぶ)の他、炭鉱、製材所などである。その名残りの一つはバンクーバーの南、フレーザー川の河口にある漁港Stevestonにもある。今も日系人の武道場が残っているのである。当時から「みかん船」の第1船がバンクーバーに到着するころはクリスマスの時期であり、カナダ人の家庭ではみかんをサンタの靴下に入れていたものである。当地のカナダ人にとってみかんは懐かしい子供時代の記憶と重なっているのだ。つまり、みかん=クリスマスなのである。
  戦後の日本が輸出に勤しんだ時、またもや日本はみかんのカナダ輸出に取り組んだ。如何せん、今でこそ中国産や韓国産のみかんに押されぎみであるが、品質は常に日本産が優れていた。当時は着物や日本舞踊などのイメージと合わせたPRをやり、地域的にもトロント、モントリオールなどの内陸部への進出も図った。「PRの先兵として国策会社だった日本航空のスチューワデスさんたちも一役かってくれた」と当時の事情に詳しいバンクーバーのカナダ人が語っていたのを思い出す。今のジャパン・ブランド戦略のさきがけと言えなくもない。

日系人が作り出した景色?
  バンクーバーの町を歩くと、3月末にはおよそ4万本もの桜がピンクの霞のように町全体を覆い、10月から始まる長い長い氷雨の季節が終わるころ、ツツジや五月、石楠花、菖蒲、紫陽花、などの花々が鮮やかに咲き誇る。北米の他都市を見慣れた目には、住宅街にもなぜか日本的な花が多く、懐かしい気持ちになるが、それもそのはずバンクーバーのこうした景色は日本人や日系人が作り出したといっても過言ではない。もともと英国的な庭作りの伝統があるところに、戦前から日系人の庭師が活躍して当地の人々の尊敬を勝ち得てきたからである。この歴史に相応しく当地には今も日系人の園芸師協会が存在する。カリフォルニアも似た面があるが、ここは日本の伝統が根付いているという感じである。桜は第2次大戦前、第1次大戦の戦没日系カナダ人と日加友好を記念して神戸市と横浜市が寄贈したのがはじまりである。

  日本との関係で忘れてならないのが日系人の歴史である。カナダでも米国と同様、第2次大戦中に日系人はそれまで築いた家産や地位を剥奪され、沿岸部から内陸のTashme, Lemmon Creek, Greenwood 等8ヶ所に強制収容された歴史がある。戦後も日系人は筆舌に尽くしがたい苦労を重ねて現在の地位を回復してきたと言える。バンクーバーではかつてパウウェル通りが日系人街の中心であったが、最近はその面影は無くなりつつある。今は別名ホンクーバーと呼ばれるほど中国系の存在が大きい。私の知人の日系カナダ人は「元から居るカナダ人はただそれだけで良い暮らしができるが、我々は現在の地位を努力して得た点で彼らと違っている」と強烈な自負心を吐露していたのを思い出す。その通りだと思う。彼女は内陸の小さな町で育ったため、ピアノのレッスンに行くにも父親が車で何時間もかけて先生の家まで送迎していたのだという。生活を再建するにも大きな努力が必要だった中で、娘にピアノレッスンを受けさせた一家の努力を思うと胸が熱くなる。

  戦後もまた日加をまたいで活躍された日本人、日系人のビジネスマン、カナダに移住した人たちも忘れられない。最初は鮭を中心とした水産業の対日ビジネスで財を成し、その後、不動産開発や輸入住宅、飲料などの分野に多角化して当地の代表的ビジネスパーソンと成られた方もいらっしゃる。かつて日本で語学を教え、その後コンテンツビジネスを始めたカナダ人もおられる。日本とバンクーバーとのビジネスが現在のように深い関係となっているのも、日系、非日系を問わず、日本に対して他地域よりずっと高い関心と好意を持ち、理解も深い人材が当地には豊富なのも、こうした人々の努力の蓄積の上にある。