フラッシュ3
 
2001年1月30日


メキシコの与党交替は変化をもたらすか


内多 允 (ITI研究主幹)


 2000年問題と言えば、1月1日を期して世界中のコンピューターシステムに狂いが生じて大混乱が起こるのではないかと懸念されたことであった。幸い大した事も無く、事無きを得た。メキシコでも同様に無事、この問題に対応した。しかし、メキシコでは別の2000年問題の行方が、国を挙げての関心事であった。それは、6年おきに実施される大統領選挙である。2000年7月2日に実施された大統領選挙では、野党・国民行動党(PAN)のビセンテ・フォックスが有効投票の約43%を獲得して当選し、PRI(制度的革命党)から政権を引き継いで12月1日に就任した。PRIは結党71年目にして初めて大統領選挙で敗北した。

 PRIは結党以来2回にわたって党名を変更したが、同党の歩みがメキシコ現代史そのもであると言える。メキシコ大統領は6年間の皇帝とも称される独裁的な権力を保持するが、同一人物がこの地位につけるのはたった1回だけである。しかし、政党としてはPRIが結党以来、フォックスが当選するまで大統領の地位を独占してきた。そのPRIが大統領を失ったことは1910年のメキシコ革命に匹敵する変化である。

「PRIが20世紀メキシコ史の主役だった」

 今でこそ世界でも希なPRIの長期政権はメキシコ社会の腐敗の元凶であるかのようになっているが、結党の動機は政治の混乱を回避するための知恵でもあった。1876年から独裁者として君臨してきたポルフィリオ・ディアス大統領が、1910年の革命で権力を失ってからは各地の軍人指導者の対立、抗争が繰り返された。1929年に後のPRIとなる国民革命党(PNR)が結成された。同党には各地のカウディリョ(Caudillo 私兵を抱える地域の有力者)や労働者、農民、公務員の多種多様な組織の連合組織であった。

 PNRは1938年にメキシコ革命党(PRM)に改称、そして46年に今日のPRIとなった。PRIが国内のさまざなな利益代表を、党内に組み込むという特徴は29年の結党以来変わっていない。PRIは国内の諸勢力を結集することによって、権力基盤を強固にした。軍部も近代的な国家にふさわしい非政治的な専門職業集団に転換したこともメキシコの民主化に寄与した。1920年代に頻発した軍人の武装蜂起は30年代に沈静化に向かった。第2次大戦後も、軍部のクーデターを経験していない中南米では数少ない国である。最後の軍人出身の大統領は、アビラ・カマチョ(就任期間19400−46年)である。PRI結党以降の大統領は憲法が定める6年の任期を全うして、政権交代を繰り返してきた。

 大統領が交替する年は経済や社会が不安定になると言われてきた。しかし、PRI敗北という政治変化を生んだ2000年の大統領選挙には、特に深刻な事態は起きなかった。むしろ、景気過熱が心配されるほどであった。これは次に例示するような6年毎の深刻な事態と比べて、2000年は異例の平穏な大統領交代の年であった。メキシコは1940年代から70年初めまで「メキシコの奇跡」と評価される安定成長を維持した。しかし、エチェベリア大統領政権の最終年(1976年)に大幅なペソ切り下げと土地を求める農民の暴動があった。次のポルティジョ大統領が退任する82年には対外債務の返済が不可能になり、為替管理や銀行国有化が断行され経済は混乱した。

 88年のデ・ラ・マドリー大統領交代時には株価が暴落した。同年の大統領選挙ではPRIのサリーナスが当選したが、選挙の運営については疑惑を残した。特に首都ではサリーナスは敗北したのではないかということも指摘された。サリーナス大統領の任期最後の年が始まる94年1月1日はNAFTA(北米自由貿易協定)が発行した。この日はメキシコ南部のチャパス州で武装農民グループが反乱が勃発した。同年12月1日にサリーナス大統領からセディージョ大統領への政権移行して間もなくテキーラショックと呼ばれる通貨危機に遭遇した。このような過去の経緯から、大統領選挙を迎える2000年には何が起きるかメキシコ内外で危惧の念も持たれた。しかも、PRI候補者の当選を確信できるような状況は失われていた。大統領選挙の開票の結果、野党のフォックス候補が当選しても前政権までのような混乱もなく政権移行も完了した。

「PRI改革派の果たした役割」

 フォックス大統領誕生の推進力は、PRI長期政権による貧富や政府・官僚機構の格差の腐敗構造に対する有権者の怒りが、従来の体制にこだわらない指導者を求めるようになったことである。しかし、メキシコでは与党の交代を待つまでもなく改革が始まっていた。特に、PRI政権のサリーナス(任期1988−94年)、セディージョ(同94−2000年)両大統領時代には、PRI自体の存立基盤を崩しかねない従来の政策から決別する変化が起きている。
 
 サリーナス大統領は市場開放政策を大胆に導入して、開発戦略を政府主導型から民間主導型への転換を促進した。対外的にはNAFTA(北米自由貿易協定)を実現させ、市場開放政策から後戻りできない体制を作り上げた。サリーナスが国営企業の民営化や規制緩和を進めて、自由競争による経済発展を目指す体制を強化した。それは、国家による民間経済部門への介入による保護政策からの撤退であった。同時にそれは国家イコールPRIの状況を否定することになり、PRIの権力基盤を崩壊させかねない。このようなサリーナスをトップとする官僚を中心とする改革派の市場開放政策は、PRI内部の保守派から厳しい反発を受けた。サリナス時代の歴史的な変化として前記の開発戦略転換に加えて、次ぎの2点がある。

 第1点は91年11月に農地制度に関する憲法27条を改正したことである(公示は翌92年1月6日)。同改正によって国家による農民への土地の分配義務は免除されることになった。また、外資を含む企業の農地所有(但し外資の出資比率は最高49%とすることを条件とする)も可能になった。メキシコの農地制度はメキシコ革命の動乱(1910−17年)の影響を受けてきた。メキシコ革命のスローガンが「耕作する者に土地を」であり、この精神が現憲法(1917年憲法)の条文となり、1915年の農地改革法となる。この法制度によって、農民の共有農地であるメキシコ独特のエヒードが発展する。エヒード農民は割り当て地の利用権のみが供与される。この利用権はエヒード農民とその家族のみに許され、親族としての子供への遺産相続は認められるが、売買や貸与は禁止されていた。

 しかし、前記改正によってエヒード農民間の権利の貸与や譲渡も可能になった。エヒード制度による農地の再分配は憲法で期限が定められていなかった。依然として農地を持たない農民が存在しており、憲法改正前からエヒード制度による農地の分配制度は形骸化していた。しかし、サリナース大統領が農地を持たない農民の自作農への道を閉ざし、メキシコ革命の精神を踏みにじったと言う批判がある。94年に勃発してフォックス政権に持ち越されたチャパス州武装農民組織と政府の対立の背景には、農地なき農民の要求が未だに実現していない現実があることを理解する必要がある。

 第2点は宗教政策の改革である。メキシコの近代史が国家とカトリック教会との権力闘争史であることから、宗教政策はカトリック対策である。植民地時代に教会は権力と富を蓄積した。独立後の政府は政教分離や教会財産没収を断行した。1917年憲法では、教会の法的存在を否定して、政教分離よりも厳しい反教会条項が定められた。91年の憲法改正によってカトリック教会を含む宗教団体を法人として法的に認知された。また、教会の財産権回復が認められ、教会関係者(牧師や修道女)に選挙権が与えられることになった。さらに、教会組織による学校教育も可能になった。カトリック教会との融和政策はバチカンとの国交関係を92年に回復させた。

 メキシコは1861年にバチカンとの国交を断絶して、131年間にわたって交流が途絶えていた。国回復前の91年には、ローマ法王のメキシコ訪問が実現した。このような政策変更は、カトリック教会の影響力が大きい現実に応えざるを得ない現実を反映している。政府は教会政策の変更は1980年代からの国際化・近代化政策の一環であると説明している。国内ではカトリック教会の影響力は無視できない。前記チャパスの武装組織と政府との初期の和解交渉では、チャパス州のサムエル・ルイス司教が活躍した。先住民の人権擁護の活動でノーベル平和賞を受けたリゴベルダ・メンチュウ女史はチャパスに亡命した時に、同司教の庇護を受けている。

 後任のセディージョ大統領もサリーナス前大統領の政策方針を踏襲したが、同時にPRIや政治の改革に取り組んだ。例えばPRIの大統領候補は現役大統領が指名してきたが、セディージョ大統領は自らこの特権を放棄して、党内での予備選挙で候補者を決定した。議会対策も変化した。セディージョ時代の97年7月の中間選挙でPRIの下院における単独過半数の地位を失ったからである。与党の地位を保持したが、野党との協力が必要になった。野党4党は協力協定を締結して、PRIと対決する姿勢を鮮明にした。上院ではPRIが過半数を制しているとはいえ、下院での野党の躍進がPRIの政治姿勢に影響を与えた。

 セディージョの改革政策は、米国で大学教育を受けた官僚派が政策立案の主役になっている。その半面、地域の幹部を中心とする党人派との対立が激化した。PRI党内では官僚派のリーダーであるセディジョ大統領への反発も高まった。同大統領がPRI保守派の反発を受けながらも透明度の高い政治を求める姿勢を取りつつ、経済の安定化・自由化政策にある程度の成果をあげたことが、長期政権のPRIを見放すことに躊躇させない自信を国民に与えたと考えられる。皮肉なことにセディージョがPRI党員でありながら、古い体質の党人派から反対される改革路線を主張したことも、有権者が新しい選択肢を支持する契機を与えた。

「フォックス政権の課題」

 フォックス大統領は当然のことであるが、メキシコ社会の積年の病弊である汚職や不正の温床を除去する政策に取り組むと共に、貧困の解消への成果も求められている。敗れたとはいえ、PRIの勢力も国会や地方政府、社会の各分野で依然として侮り難い勢力を保持している。経済問題ではメキシコ経済に大きな影響を与えている米国経済の景気下降も視野に入れた舵取りも重要な課題である。
 
 フォックス大統領の所属する政党であるPANの支持基盤は、経済界であることから1980年代からPRI政権が進めてきた経済自由化政策に異論はない。議会ではPANの議席数の現状から、PRIや他の野党との連携を、必要としている。国内では改革と経済成長を目指すこと、外交面では対米関係を重視しつつ外交関係の多角化を進めることが基本的な政策となる。

 フォックス政権はPRI政権時代に解決できなかった貧困や都市と農村との格差、汚職問題、治安対策など課題が山積している。PRI全盛期のように、大統領が議会での圧倒的な与党勢力の下で独裁的な権限を振るうことは難しくなっている。フォックス政権の評価は議会でPRIを始め、他政党との妥協を計りつつ、如何に独自色を出して政策効果を上げていくかにかかっている。