フラッシュ33
2002年3月25日


アルゼンチンからの警鐘


国際貿易投資研究所 客員研究員
〔名古屋文理大学 教授〕
内多 允

 アルゼンチンの為替制度は2002年2月11日、変動相場制に移行した。アルゼンチン通貨・ペソは1991年4月から施行されたドル兌換法(本稿のドルは米国ドルを指す)によって、当初は1ドル=1万アウストラルを、翌92年1月にデノミと通貨変更によって1ドル=1ペソを上限とする小幅の為替変動が認められた。中央銀行は無制限の市場介入義務が課せられた。兌換法体制の下で中央銀行は自由化された為替市場での買い需要に無制限の売り介入を継続するので、市中相場でドルの対ペソ相場は等価を維持してきた。2001年に入ってドル兌換法体制が揺らぎ、政変や暴動も重なって2002年1月に複数相場制が導入され、翌2月には変動相場制への一本化が決まった。3月にはドル相場は2ペソ台(3月12日2.41ペソ)を記録した。実質的なドル化を放棄してペソ化の道を選んだアルゼンチンは、市場原理重視の経済理論を教条的に唱えるだけでは解決できない問題を抱えている。

<万能ではなかった兌換法体制>
 ドル兌換法導入当初のアルゼンチン経済は1980年代のハイパーインフレも解消され、経済成長率も上昇して市場経済の成功を謳歌した。その反面、1ペソ=1ドルの交換レートはアルゼンチン経済の実力からみて無理ではないかという懸念もあった。ドル兌換法がアルゼンチン経済に貢献したこととしては、通貨発行量に歯止めをかけたことがあげられる。同法は中央銀行にマネタリーベース(通貨発行量と中央銀行と銀行の中央銀行への預金準備金の合計)と同額かこれを超える外貨準備の維持を義務付けた。これは過去に財政赤字を補うために紙幣を増刷して、インフレを煽ったことを繰り返さないために取られた措置である。インフレが激しくなると、紙幣を印刷する紙も値上がりして調達に苦労する事態も喧伝された。
 ドル兌換法がアルゼンチン経済の再建に貢献したこと(少なくとも一時的には)は明らかである。アルゼンチン経済の悩みの種はインフレである。1980年代の年間インフレ率が3桁から4桁の数字を示すことは珍しいことではなかった。インフレもドル兌換法によって通貨の乱発ができないので沈静化した。同法がペソとドルが等価であることを保証したことも、安心感を与えた。
 インフレと通貨増発の悪循環に陥った時期は、商店の値段も毎日のように値札を書き直す事態を迎える。消費者も日に日に、或いは時間単位で通貨価値が下がる(つまり物価が上がる)状況で生活を維持するためには、現金を一刻も早く物に変えることであった。ドル兌換法によって、インフレの高進を見越した消費の拡大は防止できた。1990年代前半には民営化も推進されたことによって、財政も潤った。しかも、民営化対象の多くの国営企業は外資に売却されたので外貨収入も増えた。貿易自由化によって、輸入品も豊富に出回るようになった。しかも、ドル兌換法の下でペソ高の状況が生じたことも輸入を拡大した。しかし、国内の消費拡大を謳歌していた1990年前半にアルゼンチンは、経済構造の弱点を改善することができなかった。その弱点とは輸出競争力と財政である。
 輸出競争力についてはペソがドルと等価であることが響いている。つまり、当時の米国の好況によるドル高基調の国際環境が影響した。しかも、1999年のロシア通貨危機の影響でブラジル等の周辺国通貨が切り下がる中で、アルゼンチン・ペソが相対的に割高となった。重要な貿易相手国であるブラジルが同年にレアルを切り下げたことはメルコスール域内の中でも、アルゼンチン産業の国際競争力を劣勢に追い込んだ。
 財政は1990年代前半は大規模な国営企業の民営化による外貨収入によって、改善された。しかし、同年代後半は年を追って財政赤字は増加した。この赤字補填のために対外債務が増加した。しかも、元々貿易収支が赤字基調であった上にドル兌換制によるペソ高が輸入を増加させた。輸入超過を主な要因とする経常収支の悪化も、対外債務を増加させた。

<拡大する人と企業の国外脱出>
 アルゼンチンで経済危機による混乱がピークに達したのは2001年12月であった。銀行が一時閉鎖されたり、外貨交換が一時停止された。各地で暴徒が商店を襲う事態も起こった。経済の行き詰まりを懸念する声は以前からあったが、政府の施策は国民の不安と不満を和らげることができなかった。国民も経済危機に対処するためには政府を全面的に信頼しているわけではない。そのことが端的に表われているのが、ドルへの執着である。確かにドル兌換法では、ペソを無制限にドルへ交換できることを認めている。同法の狙いはペソの対ドル等価を保証することによって、ペソへの信頼を高めることであってドルの供給を増やすことではなかったはずである。アルゼンチン経済の実力は、無制限にドルを供給できないことは明白である。これは、かつての金本位制のドルと同じであろう。ドルが金と交換できるからといって、その要求に全て応じられる金を米国が持っていたわけではない。
 しかし、今回の変動相場制移行はアルゼンチン国民の自国通貨への不信感が筋金入りであることを、改めて認識させた。アルゼンチンは米国を除けば世界最大の国民1人当たりのドル保有額を誇っていると推定されている。米国財務省によれば(02年2月20日付Financial Times電子版)、アルゼンチンでは1人当たり700ドル持っている。同国の総人口は約3,600万人であるから、その総額は252億ドルに上る。今回もペソが切り下げに追い込まれてドル兌換体制が崩壊したことによって、多くのアルゼンチン国民はドルが信頼できる通貨であることの確信を深めたに違いない。アルゼンチン国民のドル選好は長年にわたる政治・経済の混乱によって、自国通貨の価値が低落することに対する自衛手段として考えついた生活の知恵である。現金は極力ドルに交換して海外の銀行口座に預けるか、自宅のタンス貯金で保管することは当たり前のことである。2001年のように政治・経済情勢が不安定な様相を帯びると、ドルへの換金は一層増加する。この年も銀行預金の引き出し額の制限やドル売買の一時停止措置を取らざるを得ない程、ドル現金への需要が膨らんだ。これらの措置が更に、ペソへの信認を低下させ固定相場制放棄の事態を招いた。Financial Times紙(01年12月3日付電子版)はアルゼンチン国内の銀行から2001年には、預金総額の17%に相当する約145億ドルが既に金庫か海外口座に移すために引き出されたと報道している。
 ちなみに政府が2月3日、新経済政策で言及した外貨準備高は140億ドルであった。アルゼンチンでは個人のドル保有が多い例として、前記Financial Timesの記事では建築現場の労働者が庭に埋めらていた壷から2万ドルを発見したことを伝えている。これについての筆者の私見を加えるなら、「自国の通貨と銀行を信用しないアルゼンチン気質をしのばせるといわれれば、納得できそうな歴史をこの国は抱えていると言えるエピソード」ということになろうか。
  アルゼンチンの将来に見切りをつけて資金が海外に流出したことは、既に述べた。さらに経済危機によって、企業や人にも国外脱出の動きが加速化している。今や「国が企業を選ぶ時代」ではなく、「企業が国を選ぶ時代」であると言われている。個人についても生活が保障され、能力を発揮できる国を求めて国外への移住が活発になっている。アルゼンチンでも経済危機が深刻になってからは、スペインやイタリアでの就労のための移住申請が、ブエノスアイレスのこれら両国への大使館に殺到していると報道されている。アルゼンチンでは多くの国民の先祖は両国からの移民である。スペイン政府はアルゼンチンからの移民受け入れに好意的な態度を表明している。スペインの銀行、石油や電話等の大企業が進出しているだけに、アルゼンチン経済再建の動向はスペイン経済にも大きく影響する。イスラエルはアルゼンチンからのユダヤ系移民受け入れに関心を示している。
 一方、中南米からの移民が多い米国はアルゼンチンからの人口流入を警戒している。過去にも天災や政治的な混乱、経済不振を契機に中南米から米国への移住が不法入国を含めて増大したからである。アメリカ政府は02年2月20日、アルゼンチン国民に対する入国ビザ免除措置を廃止した。その理由は、ビザが無くても米国に滞在できる90日間が経過した後の不法滞在を防止するためである。米国にビザ免除で入国したアルゼンチン人は、2000年においては41万1,000人に上る。ある調査によればアルゼンチン国民の3分の1はもし可能なら国外に出ることを望んでいるという結果がでている。とかく国外に移住しても就職して生活基盤が築ける人達は、アルゼンチンにとっても有能な人材であることは十分想像できる。経済再建の時こそ必要な人材が海外に移住する事態は、アルゼンチン経済にとって、大きな痛手となろう。
 企業については、隣国ブラジルへの国外脱出が注目される。その移動の実態についてメルコスル統合ブラジル企業協会によると(サンパウロ新聞電子版2001年8月22日付)、95年から98年の間に180社が、99年から2001年6月の間には約90社が移動した。これらの企業の業種は建設やアグロビジネス、エネルギー関連、自動車部品等である。99年以降の主な業種では製造業が主体であると報告している。

<再建策の基本は国民の生活保障>
 アルゼンチンの開発戦略は1980年代から政府主導から民間主導に転換した。国営企業の民営化や経済自由化が大胆に導入され、内外の民間企業に経済発展の主役が委ねられた。今回の経済危機の打開策についても金融支援や経済政策について、さまざまな提言がでている。しかし、再建策の鍵を握っているのは人である。経済のグローバル化が如何に進んでも、企業や人がアルゼンチンの前途を見限って国外脱出するようでは、経済の再建は難しくなる。政府が経済活動の自由を叫んでも、個人にとって魅力のある国でなければ経済の重要な担い手となる人材に事欠く事態を招きかねない。アルゼンチンの貧困者が増加していることからも、生活基盤の確保を求める国外移住者が増えている状況が理解できる。
 アルゼンチン労働同盟のエコノミストであるクラウディオ・ロサノ氏によれば、貧困層が総人口に占める割合は1975年(総人口2,200万人)には10%であったが、現在(同3,600万人)は40%にもなっていると指摘している(2002年2月11日付The Christian Science Monitor)。アルゼンチン統計・センサス局が01年に実施したセンサスでも、月収77.5ドル以下の貧困層の人口は1,400万人以上になると02年2月、報道された。
 アルゼンチン経済は1990年代前半は80年代の低迷期を脱して、好況を謳歌し民間主導型の発展を目指す経済自由化路線の成功例として、評価された。その反面、経済自由化路線を持続させるための政府の役割についての「志」や「見識」に至らない面があったのではないか。とかく経済自由化を強調するために、小さな政府が良しとされる。また、個人の自己責任も強調される。しかし、アルゼンチンの貧富の格差は個人の自己責任だけでは解決できない歴史的な問題である。アルゼンチンで起こっていることは、政府がこの問題についての解決策を、経済自由化やグローバリゼーションの成り行きに任せていては解決しないことを示している。また、これは貧富の格差を放置したままの経済自由化政策への警鐘である。

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