フラッシュ38
2002年8月15日


ブカレストの犬とEUハーモナイゼーション


国際貿易投資研究所
研究主幹 田中信世 



 ルーマニアの首都ブカレストは、昔は小パリと称せられていたほど美しい街であるが、なぜか野良犬がやたらに多い。それも、ほとんどが中型犬以上の大きな犬である。

 ブカレストの街を歩いていると、公園といわず、繁華街といわず、普通の住宅街の道路といわず、いたるところに野良犬がうろうろと徘徊している。公園等では野良犬が群れをなしていることもある。ブカレスト空港では滑走路をはずれた草むらの中にも何匹かの野良犬がうろついているのを見たこともある。
 何年か前に泊まったことのあるインターコンチネンタル・ホテルでもホテルの出口から一歩出れば、もう車寄せの近くに何匹かの野良犬がうろついているといった具合である。

 野良犬がうろうろしているということは、犬の嫌いな(正確には、犬に対して大いなる恐怖心を持っている)私にははなはだ不都合なことだ。あるときは、観光案内書にも載っている有名なレストランに行こうとして、レストランのすぐ近くまで歩いていったのはよいが、レストランの入口の近くに大きな野良犬が3匹ほど寝そべっていて、それが怖くてとうとうレストランに入れず引き返してきたことがあった。
 ブカレストには、89年の革命で処刑されたチャウセスク元大統領が処刑直前まで情熱を込めてつくったチャウセスク宮殿がある(チャウセスクの処刑後完成したこの宮殿はその後観光客にも開放されている)。この宮殿の前には、パリのシャンゼリゼーを模してつくったといわれる大通りがある。早朝、散歩をかねて宮殿に近寄ろうとして、大通りの緑地に入ったとたん、野良犬の群れに遭遇した。その時は、早朝でもあり、周りに人気がなかっただけに余計に怖かった。結局、チャウセスク宮殿は遠くから見るだけで断念して帰ってきた。ブカレスト市内にある、古い民家を集めて展示した野外の住宅博物館の敷地内にも野良犬がいて行く手をはばまれ、怖い思いをした経験もある。

 私が犬を怖がるのにはわけがある。小学生のころ、ある家に月掛けの集金に行き(当時、田舎の私の家では雑貨店をやっていた)、その家の戸を開けたとたん大きなシェパードに猛烈な勢いで吠えかかられ、追いかけられたのである。逃げる私の足のアキレス腱のあたりにかかった、その時のシェパードの荒い鼻息の感触が、私の犬に対する恐怖心の原点になっている。
 ところで、ブカレストにはどうして、こうも野良犬が多いのであろうか。はっきりしたことはわからないが、昔、ルーマニアの農村では外部からの略奪者の襲撃に備えて、村全体で犬を放し飼いにするという習慣があった。その習慣が昔のブカレストに持ち込まれ、それが現在まで続いているのではないかと説明する現地の日本人駐在員もいた。もしこの説が正しいとすると、一見近代的にみえるブカレストという街はいまだに農村的な色彩の強い習慣を色濃く残しているということになる。
 それに、野良犬が多いということは、一面では、ブカレスト市民の動物に対する気持のやさしさを表してはいないか。市民が野良犬に対して常時気をつけて餌を与えていなければ、こうもたくさんの野良犬が特に腹をすかせているふうもなく、徘徊していることはありえないからだ。

「中国では、犬が吠えるのも、一度もきかなかった。アメリカでもヨーロッパでも、犬が吠えるのは、あまり聞いたことがない。犬が人に向かって吠えるのは、ヤバン国ではないのか。」(『田中小実昌エッセイ・コレクション2−旅』、ちくま文庫、283頁)

 犬が人に向かって吠えるのはヤバン国ではないのかというのはひとつの見方である。
 この論法でいけば、野良犬がうろうろしていて、時に人に吠えかかることもある国はもっとヤバン国であるという見方も成り立つ。犬の怖い私としては8割ぐらいの気分でこの説に賛成だ。しかし、あとの2割では「ちょっと待てよ」という気分が残る。

 どこのテレビ局か忘れたが、民放のテレビ番組に、世界の鉄道の旅を紹介する『世界の車窓から』という15分ほどの長寿番組がある。少し前にこの番組を見ていたら、ブカレストまでの列車の旅を紹介するシーンが出てきた。「列車はブカレスト中央駅に到着します」というアナウンサーのナレーションとともに、ブカレスト中央駅の構内が映し出された。この画面のなかになつかしい風景が出てきたのである。それは、レールとレールの間をうろつく2匹の野良犬であった。それはいかにもブカレストらしさを象徴する風景であるように私には思われた。それはブカレストが発信する強烈な地方色といってもよいかもしれない。

 ルーマニアは現在、2008年ごろのEU加盟を目指して、加盟準備を進めている。加盟準備の根幹はルーマニアの法律をEUのアキ・コミュノテール(EUの法体系)に調和(ハーモナイズ)させることである。ルーマニアに限らず、EU加盟候補国は自国の何万ページにも及ぶ膨大な法律を英文に翻訳したうえで、EUのアキに整合させる作業をしている。

 問題はEUへのハーモナイゼーションを進めることによって、加盟候補国の独自の文化や地方色がEU色の中に埋没してしまうことはないのかということである。前述のブカレストの犬を例にとれば、飼い犬の取り締りなどは市町村ベースの条例などによることが多いと思われるので、EUへのハーモナイゼーションによって、放し飼いの状態で野良犬を放置している現在の状況が一気に変わることはないかもしれない。しかし、狂犬病取締法など国ベースの法律のEUへの適合が進んだ場合、長期的には、大きな変化が出ることも考えられる。

 EUへのハーモナイゼーションは、現在のブカレストの野良犬にも大きな影響を及ぼすことになるのか。EU統合と加盟国(地方)の文化や特徴の共存は可能かという観点から、犬の怖い私は、ハーモナイゼーションの進行と野良犬の行方との関連を、重大な関心を持って見守っている。