フラッシュ437
2019年10月21日
 

ITIフラッシュ タイ研究会報告(2)
いかに中国がチェンライにきたのか~新華僑と旧華僑~

 
藤村 学
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
青山学院大学 教授

 

チェンライ市はチェンマイから国境方面の北東方向に直線距離で約140km、道路距離にして175km、車で3時間のところにある。チェンライ県は、ラオス、ミャンマーと国境を接するゴールデントライアングルを抱え、昔からメコン川交易の中心地である。現在は、大メコン圏(GMS)の経済回廊や国の一帯一路により、ラオスやミャンマー経由(メコン川の水運も含め)で中国経済との統合が進展している。中国がいかにチェンライにやってきたのか、現在と過去を振り返り、青山学院大学・藤村学教授に解説いただいた。(聞き手はITI事務局長大木博巳)

 

Q.いかにして中国企業がチェンライに入ってきたのか、チェンライ県商工会議所前会頭から伺った話は大変興味深いものでした。きっかけは、ASEAN・中国自由貿易協定(ACFTA)のアーリーハーベスト。

A.2005年にASEAN・中国自由貿易協定(ACFTA)のアーリーハーベスト(前倒し)措置が発効して、中国が輸入するタイ農産品の関税が無税(段階的に)となりました。チェンライの農家は雲南省向けにロンガンなどを栽培し始め、乾燥ロンガン工場が建ち始めた。しかし、これらの工場はタイ人パートナーが名目所有者ですが、実質的にサプライチェーンのほとんどすべてを中国企業側が支配し、そして供給過剰になった場合の値崩れリスクはすべてタイ農家側が負うという不公正な契約であったとのことでした。

タイ側の農産加工のキャパシティができていない段階で、中国政府による「走出去」政策(対外投資に対しゼロ金利融資など)を背負って中国の大手企業がタイの地方に大挙やって来て、潜在輸入品を探し回るという、買い手が有利な状況を作り出したことが背景にあるようです。

Q.経済規模の小さいチェンライに中国資本の大波が急激に押し寄せた結果、交渉力は弱いタイの農家はなすすべもなかったようです。自由取引をすれば、利益の大半が中国企業の手中に入ってしまう。初めから、不公正な配分になることは、避けられなかった。

A. 残念ながらそう思います。国家主導の急激な中国資本進出に対し、チェンライ側は、厳しい財政制約のなかで狭い公共投資対象を微調整する程度の行政能力しかなく、新しい現実に対し、いまだに古いパラダイムの中で経済運営をしている、とチェンライ前商工会議所会頭は評していました。その間に地場の中小企業は中国企業との競争に敗れ去っていくというストーリーは、タイの地方経済だけでなく、バンコクでも起きているとのことでした。バンコクの農産物卸売市場の9割は中国系業者が市場を支配していると述べていました。同様のことが、中国と国境を接するラオス北部やミャンマー北部・北東部の農村部でも起きていると見てよいと思います。

Q.チェンライ県は、中国企業を念頭に置いた経済特区(SEZ)構想を練っていたようです。

A. 前会頭によれば、チェンライの経済特区構想は2つのフェーズを経たといいます。第1フェースは2006~8年ごろ、上述のACFTAがまだ完全始動しておらず、中国企業がチェンセンで工業団地開発を要望してきた時期です。中国としてはチェンライを足掛かりにASEAN市場へ中国製品の販路を広げたい狙いでした。ところが2008年以降、ACFTAが本格始動し、中国本土からASEAN市場へ工業製品を有利に輸出できるようになったため、中国側は工業団地の必要性がなくなり、構想を取り下げました。

第2フェーズは、前会頭自身が2007年にタイ商工会議所に依頼され、大メコン圏(GMS)の越境交通協定(CBTA)の詳細ドラフト作成のタスクフォースに参加して以降、現在に至るまでで、自身も頭を悩ませ、チェンライに経済特区を設ける場合の競争優位・差別化分野に知恵を絞ってきたとのことです。その結果、第2フェーズでは、国境貿易・物流ハブ、農業・農産加工、観光の3分野に優位性があると考え、そうした方向性でタイ中央政府と協議しているという状況のようです。

 

Q.チェンライ県は、前会頭が就任した1997~8年ごろに大メコン圏(GMS)の経済回廊の枠組みに参加しました。

A. 当時は陸路のインフラ整備は手つかずで、中国雲南省とタイ北部との貿易はメコン川ルートでの内陸水運貿易がメインであり、その制約のなかで初期の経済回廊構想を練ったということでしょう。ACFTA 前倒し時期の中・タイ貿易拡大はメコン川ルートがメインだったと思います。しかしその後、2008年にラオス北西部のボケオ県・ルアンナムタ県を通る国道3号線がタイ政府・中国政府・アジア開発銀行(ADB)の3者によって区分を棲み分けして舗装整備され、さらに2013年末に、タイ政府と中国政府の折半による支援で、チェンライ県とラオスのボケオ県を結ぶメコン川を渡す第4メコン友好橋が完成したことで、昆明とチェンライ・チェンマイを結ぶ道路一貫交通が完成したため、中国南部とタイ北部の経済統合のオプションが拡大しました。

Q. 第4メコン友好橋完成の地場経済へのインパクトをどう評価しますか。

A. 友好橋完成による南北経済回廊の陸路開通が地場経済に与えた効果としては、定量的評価は困難ですが、チェンライ県でいろいろヒアリングした限りでは、橋の完成によって物流や観光客がメコン川の前後の拠点を素通りすることができるようになったり、県外の業者との競争が厳しくなったりしたため、少なくとも地場の中小貿易業者、輸送業者、サービス業者にとっては純マイナスで、むしろ中国の貿易業者に大きなプラス、タイのチェンマイ県やチェンライ県のサプライチェーンに参加できる一部農家にとっては若干プラスかと思います。国境通過のCIQ(税関、出入国管理、検疫)機能が橋へ移ってしまったため、ボートによる往来をベースに商売をしていたチェンセン~チェンコン間のボート業者やゲストハウスなどの観光産業はマイナスの影響を受けたという印象です。

 

Q. 第4メコン友好橋完成当初は、自動車で旅行する中国人が急増したとのことでした。

A. チェンコンの第4メコン友好橋完成に伴い、3年前までは中国人観光客が自家用車で陸路で月あたり4000台規模で押し寄せていたそうです。中国正月ともなると3~4万台が押し寄せ、タイ側は大混乱となったため、タイ当局が、自家用車で越境する中国人渡航者に対し、1か月前までに申請すること、タイで運転するまえに半日間の研修を受けること、自動車事故保険に入ることなどを義務付けた結果、中国人観光客の自家用車族はタイを敬遠して、ラオスのルアンパバンやビエンチャン方向へ転換したようです。

Q.中国の国力回復とともに、中国の影響力がチェンライでも増しているようですが、チェンライにも、昔から多くの華僑系タイ人が住んでいます。

A. はい、「走出去」政策によって染み出てくる新華僑とは別に、中国本土が貧しかった時代に移民してきた多くの旧華僑の人たちが北部タイに暮らしています。今回チェンライで様々な面談をアレンジしてもらった、たまたま大学院時代の同窓生のチェンライ出身の友人もそうした背景の人物であったことを今回発見し、改めて感銘を受けました。

友人の家系は曾祖父の代に、中国からタイに移住してきたとのことです。最初はランパンLamphang(チェンライから真南に約100km)県に住みましたが、その後、祖父が鉄道建設の工事契約者(身分の詳細は不明)としてランパン県からチェンマイをつなぐトンネル工事に携わりました。当時はランパンとチェンライの中間に位置するパヤオPhayaoがタイの鉄道の幹線でした。友人自身、50年前、10歳のころバンコクに旅をしたときの記憶では、チェンライからまずバスでパヤオに出て、そこから列車に乗り換える必要があり、1日半の長旅だったそうです。その祖父が、ペンシルバニアからやって来たPresbyterian(長老派)の医師である宣教師Dr. Brickと共同で、チェンライ市街づくりに様々な形で貢献したということです。約120年前のことです。

Q.120年前には、ビルマ方面からモン族が、チェンライを襲撃しに来たと聞きました。宣教師ともども教会に立てこもり、チェンライを守り、モン族の侵入を防いだとのことでした。

A. 当時のチェンライは、長方形型の城壁の内側は空っぽだったそうです。そこで、チェンライ市長が「四方を壁に囲まれた家屋を建てることができる者は、その下の土地を与えられる」という「拓殖」政策を採用したそうです。こうした経緯から現在のチェンライ市街が出来上がってきた、つまり、友人の祖父はチェンライの都市建設に大きく貢献したということです。そうした経緯から、友人は小さいころ、近所で彼を誰だか知らない人がいない環境で育ったとか。そしてご兄姉は、チェンライ県を代表する元上院議員で新病院棟を建設中の医師のお兄さん、ボルティモアに在住する薬剤師のお姉さんなど、成功者家族として世に羽ばたいている、というような大河ドラマ的な話です。

(ITIタイ研究会は公益財団法人JKAの補助事業で実施)