フラッシュ452
2020年3月11日
 

ITIタイ研究会報告(8)険しいタイの高所得国への道のり
~「タイランド4.0の課題と展望」~

 
高橋 与志
広島大学 准教授

 

ITIタイ研究会(公益財団法人JKA補助事業)では、2019年8月に「タイランド4.0の課題と展望」をテーマに、タイ経済・産業に詳しいタイ人研究者にインタビューを行った。以下では、独立系で社会経済開発分野の主導的な研究機関であるタイ開発研究所のSaowaruj Rattanakhamfuシニアリサーチフェロー、タマサート大学経済学部のPeera Charoenporn准教授、大手銀行系シンクタンク、カシコンリサーチセンターのSiwat Luangsomboon副社長の 3名の見解を紹介しながら考察したい。

産業人材、産業支援人材の供給に危機感

まずタイ開発研究所のSaowaruj氏は、タイランド4.0を成功に導くために不可欠な民間の産業人材と政府の産業支援人材の両方の供給について危機感を持っていた。

「タイランド4.0のコアとなる東部経済回廊(EEC)は優先的な資源配分が試みられているが、現状では主にインフラ構想が先行している。政策のマーケティングとしては成功しているかもしれないが、実現可能性には不安が残る。実質的な中身となる新産業の発展に関して言うと、戦略的に重点を置く10産業のうち、とくに「新Sカーブ」産業では担い手となる人材の育成の見通しが立っていない。より一般的な情報通信産業の例を挙げると、関連分野の学卒者は量としては多いかもしれないが、質に問題があるため給料水準は低いままである。問題は「関連分野」のカリキュラムにある。多くは情報技術とビジネスを組み合わせているが、結果的に中途半端になっている。カリキュラム改訂の頻度も5年ごとで、ダイナミックで破壊的な産業の変化に追いつけていない。「新Sカーブ」の産業は、いずれもデジタル技術に依拠しているため、明らかに遅れが見られる。こうした点で、短期的には外国人受け入れが不可欠といえる。その意味で、専門性をも外国人材を機動的に受け入れるためのスマートビザスキームの実施は評価できる。」

「新Sカーブ」産業は当該産業が産業高度化を体現するだけでなく、他の産業の高度化を促す効果も大いに期待される。ただし、必要なレベルの人材の不足がここにも影を落としている。例えば、ロボット産業の発展は国内産業のユーザー企業による効果的なロボットの利用によって支えられる。ところが、「国内にシステムインテグレーター(SI)は200社足らずで、うち人工知能を専門的に扱える企業は10社に満たない。ジェトロの支援を受けたデンソーのLASI(lean automation system integration)プロジェクトは、この点の改善に資するものと評価している。自動化の前にリーン生産方式導入が必要とする内容で、10社以上のローカルSI高度化に成果があった。」さらにスケールアップした実施が望まれる。

他方で、既存「Sカーブ」産業も楽観視できない。「自動車産業では日系企業、電子産業ではウエスタン・デジタルやシーゲートなど生産拠点として確立したが、最新技術の移転は停滞している。本社が非協力的という批判は根強いが、それと同時にタイ側の技術受容能力不足も指摘しておいておかなければならない。タイ工業連盟の調査では、1500社中60%が資源や非熟練労働力ベースの軽工業を指すIndustry 2.0レベルにとどまっているという」。

「何より重要なソフトインフラともいえる科学・技術教育を見ると、全体では量的にマレーシア、ベトナムの後塵を拝する状況である。Practical engineer育成のため日本の高専を取り入れる動きもあるが、学位を持たない「エンジニア」に対する社会的な認知が不十分であり、実を結ぶかどうかには懸念が残る。ハイテク産業拠点を目指すEECの労働人口の半分は高卒レベルであり、このギャップは容易に埋めることはできない。」

さらに、タイ石油公社(PTT)、サイアムセメント、CPグループといった外資と同じく優遇策を享受している大企業とは異なり、「中小企業への波及が期待できそうにないことも問題である。ジェトロの地場中小企業と日本企業と結びつける取り組みは高く評価するが、タイの国内機関も同様の努力をすべきである。」

タイ投資委員会(BOI)、労働省、デジタル経済社会省、国家経済社会開発委員会(NESDC)といった主要な関連政府機関は、それぞれ取り組みを進めていて、個別の施策には強化できる面もあるというが、「政府の支援はアドホックで持続性がない。必要な政策ではなくできる政策だけを行い、他の政府機関との調整・協力が不十分ということは否定できない。また民間セクター以上に、Sカーブ産業、とくに新Sカーブ産業が分かる人材が不足している。とくにデジタル経済社会省は、政策の方向性は正しいが優秀な人材は民間との争奪戦となり、見合う賃金が払えずに雇用できない状況に陥っている。タイ中央銀行は処遇をよくしてフィンテックで成果を上げているので、政府機関でもこれまでの公務員の処遇にとらわれない方法の導入は不可能ではないだろう。」

「産業人材育成にしろ、中小企業振興にしろ複雑なマネジメントスキルが必要だが、担当大臣もよく交代するので長期的な取り組みが難しい。現政権が安定をもたらし日系企業の評価も高いことは理解できる。ただ、今後のタイには安定以上のものが必要ではないか。」

より的確かつ積極的な産業支援政策で後押しを

次にタマサート大学のPeera氏は、これまで実質的・包括的な戦略として製造業の生産性を向上させる目標は示されてこなかったことから、その点を掲げたことは評価している。ただし、実際に高所得国入りのための処方箋とするために、より的確かつ積極的な産業支援政策の必要性を指摘している。

「特定の産業を支援することはよいが、既存の製造業への波及についての視点が不十分である。例えば、新Sカーブ産業のうちとくにデジタル産業やロボット産業は、関連技術を既存の産業が活用することで生産性の向上が期待できる。」

課題を克服させるための政策的な取り組みにも改善の余地がある。「タイランド4.0推進のための政策ツールとして、イノベーションに貢献する取り組みに税制上の優遇措置を適用する、EECでインフラを整備するといった施策が実施されつつある。こうした古いツールに加えて、デジタル経済社会省が推進役になることを期待しているが、予算と人員が限られていることが問題である。」

波及効果の発現に疑問が残るのは企業のマインドにも原因があるが、政策によって流れを変えることはできる。その取り組みがまだ不十分であると指摘する。「経済成長率が3~4%の状態で、経営者が新しい技術に積極的に投資することは考えにくい。投資には資金が必要で、融資を受ければ企業にとってリスクが生じる。税制上の優遇措置のような新古典派的な政策ツールだけではこうしたリスクを軽減できない。中国のような補助金を含めたより積極的な方策が望まれる。実際に技術の普及の担い手となるデジタルサービスのプロバイダーも不足しているが、少なくとも短期的にはより積極的に国外から技術者を受け入れるべきであろう。保護的な法律を変えることは容易でないので、BOIの奨励制度の枠内で実現できるようにしていることは評価できる。」

産業政策としてだけではなくより広範な社会経済レベルで「タイ・デジタル経済社会開発20か年計画」を策定し、生産性の向上、所得格差の是正、雇用の拡大、産業構造の高度化、ASEAN経済共同体でのハブ的役割、政府のガバナンス強化の6つの目標を掲げている。タイランド4.0もこうした目標に資することが期待されるが、生産性の向上に関しては前述の通りSカーブ産業からの波及に課題が残る。さらに、「Sカーブ産業は知識集約的であるため、現在の貧困層を包摂することができず所得格差はむしろ広がる危険がある。雇用の拡大についても比較的資本集約度が高いため、既存産業への波及効果が出てこなければ十分な形では見込めない。」

世界市場を見た場合、Sカーブの10産業を選択したことには必然性があるが、だからこそ「中国、マレーシア、シンガポールが目指すものと似通ってしまう。タイ系の大企業にとっても、達成すべき目標との間にはギャップがあるといわざるを得ない。理想を言えばローカル企業を主要な担い手として育てたいが、20年でもその差を容易に埋められるとは思えない。政府は各産業での研究を推進すべく、例えば政府系のThailand Research Fundでも各産業向けの枠を設けている。そのこと自体は評価できるのだが、基本的には学術・研究機関の研究者が対象で民間企業は対象外である。シンガポールで成功した民間企業と政府が資金を出し合って研究開発に取り組むマッチングファンドの形式は、タイでも取り入れられているが、規模が小さすぎる。規模を10倍に拡大する計画があるが、それでもまだ小さすぎる。タイ系だけでなく外資系企業も対象にしてよいと思う。1990年代の経済危機の後、製造業の多くが外資を受け入れたことも、政策立案者の考え方に影響を及ぼしてきた。多国籍企業が主要な部分を占める製造業は税制で優遇すれば十分で、その他のことは企業が自前で対応できるという姿勢で、無視に近い形になってきた。この点も発想の転換が必要である。」

「一般的にタイでは規制の変更が遅すぎる。例えばUberはタイではまだ違法の状態に置かれている。必要な最小限の規制は残すとしても、合法化によって新技術を活用したビジネスを許可しないままで、デジタルエコノミーを推進しているとは言い難い面がある。さらに言うと、TPPに参加表明したが、保護の残るタイにとってはハードルが高いため、政府として必ずしも優先事項とはいえない。結局のところ、この5年間、社会的・経済的に国家の安定が最優先事項であることが足かせとなっている。」

必然性あるSカーブ産業だが独自の方向性は示しづらいジレンマ

最後にカシコンリサーチセンターのSiwat氏は、選定された戦略産業の必然性を理解しつつも、独自の方向性を見出せないことを危惧している。また、Pera氏と同じく社会全体への波及が期待しにくいことも問題と考えている。

「タイランド4.0では、地域と特定の産業を選んで支援していることが新しいし、世界レベルのインフラを整備することもよい。労働集約型産業がベトナムやカンボジアに移転し、新産業が育っていない。まさに中所得の罠に陥っている。その意味で、個人的には他に有力な選択肢はないと考える。インドネシア、マレーシア以外にも競合国が増えたため、先行きは楽観視できない。そもそも先進国入り目標を達成するには年4.5%成長が求められるし、Sカーブ産業はそれ以上の急成長が必要である。」

そこまでの勢いを生じさせるには、外資の力を活用することが必要になる。「とりわけ新Sカーブ産業は、タイだけでなく他国もその発展を目標にしているため、外資の誘致は容易でない。例えば中国製造2025とも重なる部分が大きい。中国企業はまだまだ需要が満たされていない国内市場中心の戦略を取っていると認識している。自動車産業はEVに一定の投資が望めるが、電子や航空、バイオ医療は厳しいのではないか。一方、今後も日系抜きの自動車産業は考えにくいので、日系自動車メーカーの多くが電気自動車に積極的と見えないことも気がかりだ。電機電子は時代遅れになってしまった。例えばハードディスクドライブ(HDD)からソリッドステートドライブ(SSD)への移行は進んでいない。組立中心の構造にも問題がある。希望があるとすれば、白物家電の集積を生かしたモノのインターネット(IoT)くらいだろうか。タイらしさのあるFood for futureやAgriculture and biotechnologyなら、外資も魅力を感じるかもしれない。機能性食品を手掛けるならタイの原材料と日本の技術を結び付けるといった方向性があり得る。既存Sカーブ産業も含めれば、国内財閥にも一定の役割は期待できる。タイ石油公社(PTT)やCPグループは研究開発やオートメーションの導入を進めている。こうした国内の大財閥は、政府、大学などともより一層連携すべきである。」

他の研究者と同じく、Sカーブ産業への中小企業の進出は難しいと指摘する。「ハイテクかつサプライチェーンの広がりも期待できない。食品産業でも財閥が農家と直接つながり、中小企業の出る幕はない。例えば、PTTのバイオプラスチック事業は成果を上げつつあるが、農家から原料を買って輸出するだけで中小企業は関与できていない。」

こうした問題は政府も認識していて、繊維・アパレルなどより広い範囲の産業を対象とした第2のSカーブも構想しているという。「まだ話だけでロードマップもできていないが、本気で中小企業の底上げを目指すなら、タイランド4.0のSカーブ産業とは別により一般的な産業分野でイノベーションを喚起すべきである。とくにサービス業でイノベーション志向が弱いことは改善すべきだろう。小売りや観光分野の中小企業は、国内市場で十分経営が成り立つ。将来アリババなどが本格的に進出したら国内小売は潰滅的打撃を受けるかもしれないが、観光はまだ中小企業の高度化の可能性がある。観光は伝統的な魅力+αが期待され富裕・医療・健康ツーリズムという限定を付ける形でSカーブにも含まれている。近年のトレンド以上の成長を実現するにはより一般的な観光産業の拡大が欠かせないが、海外も含め観光客数の大幅増は容易でなく、単価を上げるためのロードマップも不明確である。総じていうと、よりすそ野の広い成長が必要で政府も分かっているはずだが、具体策に乏しい。縦割り行政も一因だろう。」

もう1点強調されたのが起業文化の重要性であった。「起業文化はベトナムやインドネシアより劣っていると懸念している。国外ベンチャーキャピタル(VC)のタイへの関心も比較的低い。政府もVCを設立したがまだ成果は出ていない。直接的な金融機能だけで、国際的なVCにリンクして経営・技術ノウハウの支援を受けることを通じて能力向上につながるような体制になっていない。親会社であるカシコン銀行は大手銀行の中では中小企業金融に最も積極的だが、ベンチャー企業の支援というよりは、信用保証を利用する場合も含めて、融資可能な企業(bankable)のみが対象となることに限界がある。グループ内にもVCはあるが、タイ国外に重点を置いている。主要な技術的ハブ、とくに中国の都市で事業を行っている有望なスタートアップ企業を見出して投資している。タイでは、こうした有望なスタートアップ企業が非常に限られているためである。」

今回インタビューした研究者はいずれも、全般にタイランド4.0の戦略的方向性については一定の評価をしているのもの、2036年の高所得国入りという目標につなげるには課題が多いことで一致している。

まずマクロレベルで考えた場合に、経済全体での成長率の底上げが欠かせない。そのためには、大きく分けてSカーブ産業の急成長と既存産業の成長率向上(Sカーブ産業からの波及あるいは自律的な成長)による貢献が期待される。Sカーブ産業の発展は野心的な目標であり、政府による直接的な支援、タイ系、外資系に関わらず民間企業の、さらには新技術に即した産業人材育成が急務である。既存産業のさらなる成長には、同様の取り組みに加えて、Sカーブ産業から実質的な波及効果を生じさせるための工夫も必要になってくる。限られた資源の中で、選択と集中を進めながら経済社会全体の底上げも図るという極めて高度な舵取りが求められる。

 

タイ政府は2015 年 11 月 17 日の閣議において、成長をけん引する産業として以下の 10 業種を承認した。①次世代自動車工業(Next Generation Automotive)②スマート・エレクトロニクス(Smart Electronics)、③富裕・医療・健康ツーリズム(Affluence, Medical & Welfare Tourism)、④農業・バイオテクノロジー(Agriculture and Biotechnology)、⑤未来食品(Food for the Future)、⑥ロボット産業(Robotics)、⑦航空・ロジスティック(Aviation and Logistics)⑧バイオ燃料・バイオ化学(Biofuels and Biochemical)、⑨デジタル産業(Digital)、⑩医療ハブ(Medical Hub)である。
政府は、このうち①~⑤を既存産業(s字カーブ産業)、⑥~⑩を未来産業(新s字カーブ産業) と区分し、時期を分けて育成する計画を示した。