フラッシュ489
2021年7月8日
 

WTOデジタル貿易協定の行方

 
岩田 伸人
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
青山学院大学地球社会共生学部 教授

 

WTOでのデジタル貿易交渉

2021年現在、WTOでは、「電子商取引共同声明イニシアティブ」と呼ばれる日本・シンガポール・豪州の3か国を輪番の議長国とする総計86か国が参加する非公式の複数国間会合(交渉) (以下、デジタル貿易交渉)が行われている。今年12月にジュネーブで開催されるWTO第12回閣僚会議で、その中間報告が予定されている。

交渉に参加する国の総数(86か国)の中に、EU加盟国数の27はカウントされているが、「EU」はカウントされていない。

同会合で国々が目指しているのは、デジタル・データが関わる多数国間(または複数国間)の貿易ルール、すなわち”WTO下のデジタル貿易協定”の形成にある。

ただし、86か国は、交渉に積極的な議長国(3か国)を含む先進国(米、EU、カナダ、豪州、N Z、韓国など)に加え、それら国々と見解を異にするBRICs諸国の中国やロシアなど(インドと南アフリカは未参加)、及び中立的な多くの途上国、といった大きく3タイプからなると推察される。

つまりグローバル化するデジタル社会にあって、86の交渉参加国に共通するのは、WTO本来の無差別原則の理念にのっとったデジタル貿易ルールの必要性は認めつつも、自国経済または自国陣営に有利なルールにもしたいという現実的な願望がある点にある。

周知のように、デジタル貿易に関わるWTOの多数国間ルールとしては、1998年の閣僚会議で「電子的送信には関税を課さない」ことを次回の閣僚会議開催までは有効とする(モラトリアム合意と呼ばれる)暫定ルールがあるのみである。

今回のデジタル貿易交渉が“非公式”と称されるのは、WTOの全加盟164か国のコンセンサス(全会一致)を得た上で開始されたものではないからである。しかし、非公式だからといって無益な会合(交渉)というわけではない。WTO設立協定第3条2で、WTOは交渉のための場(a forum for negotiations)を提供すると定めているからだ。

そもそもデジタル貿易の非公式な会合(交渉)は、2011年12月の第8回WTO閣僚会議で、一括受諾(single undertaking)の方式以外のやり方を模索することが合意されたことに始まる。

同合意を踏まえて、2013年春からデジタル貿易を含むサービス貿易全般の自由化を目指す非公式な複数国間会合としてTiSA(Trade in Services Agreement)交渉がスタートした。ただし同交渉は2017年1月のトランプ政権発足により中断したままである。

WTO枠外でのルール作り

WTO枠外でのルールとは、WTO全加盟国のコンセンサスが不要なルール・協定のことであり、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)やCPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的および先進的な協定)のような大規模な地域貿易協定だけでなく、日米デジタル貿易協定(2020年1月発効)や英国・シンガポール2国間で交渉中のデジタル経済協定(Digital Economy Agreement、以下、DEA)、さらにはシンガポール・N Z・チリ3国間のデジタル経済連携協定(Digital Economy Partnership Agreement、以下、DEPA)などがある。シンガポール・豪州FTA(2003年発効)のように既存の第14「電子商取引」章を、新たな第14「デジタルエコノミー」章に改正(2020年12月)するケースもある。

自由無差別な多数国間貿易の維持・拡大というWTOの理念を主導する国々が危惧するのは、中国のようにデジタル貿易自由化を抑制する効果のある国内法を、WTOのデジタル貿易協定よりも先に発効させてしまう途上国の動きに加えて、米国のようにGAFAに代表される自国のグローバルIT企業の利益を優先させようとする一部先進国の動きにある。

中国では、国内のサイバー空間(インターネット)の安全性確保を規律化するための「インターネット安全法」(サイバーセキュリティ法、2017年6月施行)に続いて、中国国内のインターネット上でやりとりされるデータを含む全てのデジタル・データを国家が管理するための「データ安全法」(データセキュリティ法、2021年9月1日施行予定)が導入された。これらは、いずれも中国国内でビジネスを行う外資企業の活動に一定の制約を課す国内措置である。

他方で、国々は、コロナ禍にあって国内経済の維持・回復に必要な財源の捻出と国内デジタル産業の育成に効果がある内国税(法人税や消費税)を、(GAFAのような)グローバルI T企業が自国内で稼いだ売り上げに課税するケースも見られる。

コンセンサス

仮に、今の非公式な複数国間でのデジタル貿易交渉が無事に終了し、その結果がデジタル貿易自由化のための協定案として今年末のジュネーブで開催される予定の第12回WTO閣僚会議へ提出され、その後の90日間に、首尾よくWTO全加盟164か国のコンセンサス(全会一致)が得られたならば、WTO協定の附属書一(多数国間協定)、または、附属書四(複数国間協定)のいずれかへ組み込まれ、デジタル貿易協定の発効に至ることになる。

これは、新たな協定案が「多数国間協定」タイプであれば、WTO設立協定の第10条(改正)に拠ること、または「複数国間協定」タイプならば、同設立協定第10条の9に拠ることとして、いずれの場合でも、コンセンサス(全会一致)が必要条件となっているためである(注1)。

つまり、今の86か国を中心とする国々の間でデジタル貿易協定の案が形成されても、それがWTO枠内での多数国間または複数国間の協定として発効するためには、WTO全加盟164か国によるコンセンサス(全会一致)が必要となる。

インドと南アフリカは、今のデジタル貿易交渉が全加盟164か国の総意ではない非公式な会合に過ぎないにもかかわらず、あたかもWTOの公式な多数国間交渉であるかのように進められている、として批判的な立場を表明している。

インドと南アフリカは、2013年に始まった(先進国を中心とする) TiSA交渉でも、今回と同じく反対の意向を示していた。

WTOルールに整合しないタイプのデジタル貿易協定

アジア太平洋エリアで、デジタル貿易の自由化に最も積極的な国はシンガポールである。これは、シンガポールがアジア太平洋の伝統的な財・サービス貿易の中継点としての地理的条件を満たしているだけではなく、デジタル・データ・ネットワークのハブ的な位置付けにあるためと推察される。

最近、サービスの地域貿易協定の根拠規定であるGATS第5条に整合しないタイプのデジタル貿易協定が散見されるようになった。同第5条は、「相当な範囲の分野」(substantial sectoral coverage)の自由化が対象になると定めている。2021年6月現在、WTO事務局の地域貿易協定データベースにはデジタル分野だけの域内自由化を定めたケースは、これまで一件も報告されていない。2020年1月1日に発効した日米デジタル貿易協定も、GATS第5条に整合してはいないために、WTOのデータベースに報告されていない。

上記の英国・シンガポール間のDEA、及びシンガポール・NZ・チリ間のDEPAもまた、日米デジタル貿易協定と同じく、デジタル貿易の域内自由化だけを定めるGATS第5条に整合しないWTO枠外の協定である。

とは言え、これらの国々は全てWTOの加盟国であるので、WTOから完全に逸脱することはないが、上記のようなGATS第5条に整合しない形でのルールが広まれば、デジタル・データの自由化ルールは、グローバルには共通化されないことになる。

デジタル貿易協定が、WTOが目指す多数国間協定として発効するためには、インドや南アフリカなどの強硬に反対する国々にとってもメリットのある協定となる工夫が必要になる。

まとめ

日・米・EUを含むデジタル貿易協定作りの推進派は、今回の交渉に至るまでに、2013年にスタートしたTiSA交渉を含め、相当の年数とエネルギーを費やしてきた。

冒頭で述べた86か国を中心とする今回の機会を逸すれば、国々は、WTO枠外でのルール作りを加速させ、その結果WTOの機能はさらに弱体化するおそれもある。

WTOの全加盟国が合意(賛成)に至るための工夫として、関係国はそろそろ、新協定を「多数国間協定」または「複数国間協定」のいずれにするかの選択を迫られる時期なのではないか。

もし前者(多数国間協定)を選択するのならば、自由化ルールの水準をCPTPPや日米デジタル貿易協定どころか、RCEPよりも低い水準にすることで、コンセンサスは得られる可能性はある。

後者(複数国間協定)を選択するのであれば、自由化の水準を下げる必要はないとしても、情報技術協定(ITA、1997年発効)のように未参加国へも恩恵を与えられる工夫が必要なのではないか。

いずれにせよ、日本の立ち位置は、それら交渉がスムーズに着地するための裏方役から一歩前に出て、交渉の推進力としての役割が求められている。

 

1.WTO設立協定の第10条(改正):
「・・・(省略)定められた期間内にコンセンサスに達しない場合には、閣僚会議は、加盟国の三分の二以上の多数による議決で、改正案を加盟国に対し受諾のために送付するかしないかを決定する。」として、全加盟国宛に改正案を送付する場合、必ずしもコンセンサスが必要という訳ではない旨が示されている。