一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)

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フラッシュ

2021/11/30 No.499米国のアジア太平洋デジタル経済協定構想を考える

岩田伸人
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
青山学院大学 地球社会共生学部 教授

1. 米国の関与が始まった

コロナ禍の闇の期間を経て、アジア太平洋地域では米中対立の構図を所与の条件とする、次の世代を見据えた新たな構想の動きが見えてきた。

2021年11月中旬、米国のジナ・レモンド商務長官とキャサリン・タイUSTR代表は、別々の日程で日本とシンガポールを訪問した。

両氏の訪問は、来年早々に米国が正式に開始するデジタル経済を核とするアジア太平洋の複数国間協定作りで、同じ民主主義国家として協力を要請することにあったと推察される。

米国側が日本とシンガポールを訪問した背景には、少なくとも次の3点が関わる。

第1は、中国が、今年の9月16日にCPTPP(環太平洋経済連携協定)へ、そして同11月1日にはDEPA(デジタル経済連携協定)へと、正式な加盟申請を矢継ぎ早に出したことである。

特に中国のDEPA参加申請は、米国や関係国にとって想定外であったに違いない。

バイデン政権の国内支持率が低迷する中、2020年の中間選挙までは米国内の雇用優先策に縛られることをふまえ、中国は絶妙なタイミングで米国の間隙を突いたとも言える。

仮に米国が、中国の後に、CPTPPとDEPAの両方へ参加申請を行うならば、米国民は、民主党バイデン政権の中国に対する弱腰外交を察知し、バイデン支持基盤はさらに揺らぐ。

第2は、シンガポールがDEPAの中心的役割を担っていることである。

今回の訪問には、同じ民主主義の国であるシンガポールと米国の協力関係が健在であることを内外に知らしめる効果もあった。2019年5月中旬に行われたシンガポール・チリ・ニュージランドの3か国をチャーター・メンバー(創始国)とするDEPAの初会合が終了した翌月の6月24日、リー・シェンロン首相はマスコミからのインタビューに応えて、「DEPAをCPTPPのように、将来のアジア太平洋をカバーする広域デジタル貿易協定に育てたい」と発言している。英国(注1)や韓国(注2)もDEPAを念頭に置いた交渉をシンガポールとの間で、正式に開始すると予想される。

第3に、米国にはアジア太平洋デジタル経済連携協定 (仮称)のベースとして「DEPA」を活用する意図があることである。

タイUSTR代表は、本年の春頃から米国内外での複数回のオンライン・スピーチの中で、米国が目指す広域デジタル経済・貿易協定の参考になる事例として常にDEPAをとり上げていた。

さらに2021年11月8日、米国の共和党財務委員会は、議員13名の連盟によるバイデン大統領宛の書簡の冒頭で、「我々は、あなた(バイデン大統領)へ米国の戦略的かつ経済的な恩恵を与える広域なデジタル貿易協定を検討するよう強く求める」と記している。

2. 重層化に向かうアジア・太平洋地域の経済・貿易協定

米国は、2020年早々にまずDEPAをベースに、より大規模なアジア・太平洋デジタル経済連携協定、謂わば「DEPAプラス」の交渉を関係国との間で開始し、2020年の中間選挙の後には、既存のCPTPPに「DEPAプラス」を加えた「CPTPPプラス」のようなメガ地域貿易協定を目指す可能性がある(その際には、CPTPPの第14章「電子商取引」が削除されてDEPAに代わるかも知れない)。

市場メカニズムの信奉者から見れば、このような重層化が進めば、さまざまな経済コストが発生するため、経済効率性は損なわれるはずだ。しかし、過去の歴史を振り返るまでもなく、重層化の動機が経済の効率性にあるのではなく、国家の安全保障を盾にした「民主主義国家」陣営の囲い込みにある場合には、経済効率性の優先度は後退する。

アジア太平洋には、シンガポール主導のDEPAに加えて、米国主導の「DEPAプラス」、さらに既存のCPTPPに加え、より広範囲な「CPTPPプラス」、それら以外にもRCEPというような、いくつもの地域貿易協定が重層的に存在する可能性がある。

3. DEPAとは何か

DEPAは、(通常の「章」立てではなく)「モジュール」と呼ばれる総計16の条文のグループから構成されており、各モジュール単体が、個別に改訂や修正が可能な仕組みになっている。これは、技術革新が激しいデジタル経済の分野に、本協定を迅速に対応させるための工夫と推察される(なおシンガポールは豪州との間で2003年に発効させた2国間FTAを都合6回も改正した経験があり、その轍を踏まないための工夫にもなっている)。

総計16のモジュールのうち、前半の約半数 (モジュール第1〜第6)は、既存CPTPPの第14章「電子商取引」からの移し替えであり、その一部は日米デジタル貿易協定(第21条「暗号法を使用する情報通信技術」)からも転用された形跡が見られる。つまりDEPAの対象となる国々には、CPTPPの加盟11か国が念頭に置かれている可能性がある。

残りの後半((モジュール第7〜第16)には、既存のCPTPPやUSMCA(米国・メキシコ・カナダ協定)、さらに日米デジタル貿易協定など、デジタル関連の地域貿易協定には見られない先端的な分野や概念について、大枠的な取り決めが含まれている。これらは今後の交渉過程で精緻化されていくと推察される。

例えば「人工知能(AI)の倫理規定を域内で共通化・調和化するための規定(モジュール第8の第8.2 条「人工知能」)は、テクノロジーの急速な変化に則して、他の条文を変えずに当該モジュール部分だけを改正することができる。

DEPAのモジュール第10には「中小企業への協力」と題する企業支援理念が組み込まれているが、これは米国バイデン政権がDEPAの有用性を国内世論に訴えるのに有用だ。

確実な証拠はないものの、以上の諸点に鑑みればDEPAは、その協定草案の初期段階から米国の参加を想定していたか、或いは米国側の助言も入れて作成された印象は否めない。

4. WTOの理念と民主主義

WTO(世界貿易機関)には、デジタル貿易を規律化するルールがない。そのためデジタル分野だけの枠組み協定であるDEPAは、WTO事務局への通報義務が無い。よってDEPAには、WTOが加盟国に強く求める貿易ルールとしての透明性が担保されない。

重要なのは、「DEPAプラス」とも言える本協定が、米国を含む「民主主義」の国家を中心に構成されて行く点である。本協定は、英国や韓国だけでなく、EU(欧州連合)を含めたアジア太平洋も取り込み、将来的にはグローバルな地球規模のデジタル貿易協定となる可能性もある。

他方で、本協定をデジタル分野のルールがない”現行の” WTO協定下で規律化することは至難の技である。少なくともデジタル技術やインフラが未熟な途上国・後発途上国に対する、財政・技術支援が不可欠となる。

問題は、このような「民主主義」を理念とする地域枠組み協定が、本来のGATT及びWTOの崇高な理念とは相容れない可能性がある点である。つまりWTOが無差別原則を基本理念とするマルチ(多数国間)協定であるのならば、民主主義と相容れない国(つまり社会主義国)を排除すべきではないだろう。しかし、理想と現実の間には常に時間的なずれ(タイムラグ)があることも確かである。

この点、WTO改革ではどう扱われるのだろうか。その手がかりは、本年11月下旬から12月上旬にかけてスイス・ジュネーブで開催される予定だった第12回WTO閣僚会議で全加盟164か国の合意で示されるデジタル貿易に関わる議論の中身にあったはずである。

追記:WTO事務局は、南アフリカで発見された新たな変異型コロナ「オミクロン型」に対処するとして、11月26日、第12回WTO閣僚会議の延期を正式に発表した。

1.https://www.gov.uk/government/news/uk-and-singapore-start-negotiations-on-digital-trade-agreement (Accessed on 24 November 2021)

2. The Korea Harald(12 September 2021) http://www.koreaherald.com/view.php?ud=20210912000089 (Accessed on 24 November 2021)

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