2018/09/19 No.395ミャワディからヤンゴンまで、東西回廊ミッシング・リンクの現状~ITIミャンマー研究会現地出張報告(3)~
藤村学
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
青山学院大学 教授
1991年のカンボジア和平成立を機としてADB(アジア開発銀行)の支援の下で始まったGMS(Greater Mekong Sub-region)プログラムの一つが、東西経済回廊(ダナン~ラオバオ=デンサワン国境~サワナケート=ムクダハン国境~メーソート=ミャワディ国境~モーラミャイン)の道路整備である。2006年12月にラオスのサワナケートとタイのムクダハンを結ぶ第2メコン国際友好橋が完成した。ベトナム、ラオス、カンボジアの3か国がトラック・バスの通関手続き簡素化に合意したため、13年4月より国境を越える物流が大幅に自由化された。この太平洋側のベトナム・ダナンからラオス、タイを経てインド洋に抜ける国際幹線道路、アジア・ハイウェイ1号線で「ミッシング・リンク(失われた鎖)」と揶揄されてきたのが、ミャワディからモーラミシャン、ヤンゴンまでのミャンマーの道路であった。
これまで数度にわたりこのルートを走破してきたITIミャンマー研究会(公財JKA補助事業)のメンバーである藤村学青山学院大学教授に最新(2018年8月時点)の道路・沿線事情などを伺った。(聞き手ITI事務局長 大木博巳)
今回走行したルートは?
ミャワディからヤンゴンまでの最短距離はパアン経由で402km(85号線から8号線へ)です。しかし、今回は従来の東西経済回廊の西端とされるモーラミャインを経由して少し遠回りする形で、ミャワディ~パアン140km(85号線)、パアン~モーラミャイン57km、モーラミャイン~ヤンゴン310km(8号線)と3区間に刻んで走行(しようと)しました。およそこの通り走ったのですが、雨期の4~5年に1度といわれる記録的な降雨に見舞われ、後述のとおり、2か所で迂回路をとらざるを得ませんでした。
ミャワディとコーカレイを結ぶ旧道の区間は長く「回廊のボトルネック」だったが、タイの支援で新道が開通しました。
以前は日替わり一方通行の危険な難路だった旧道の58kmに代わり、2015年8月に開通したバイパス新道46 kmを走れるおかげで(図2の右端部分参照)、40分でこの部分を走破しました。ただし、新道の交通量は雨期でも少なくなく、激しい雨で山側の土砂が路上に流れ込んでいる箇所を散見しました。タイの援助による高規格道路(写真①、②)と理解しますが、地形は必ずしも平坦ではありません。日本がラオスに援助した9号線もそうでしたが、5~6年経てば、過積載トラックの通行、雨風による浸食で、かなり痛んでいる可能性もあると思います。
① バイパス新道開通記念碑
② バイパス新道を走る車
コーカレイから先の85号線の道路事情と沿線の様子について
コーカレイから先の道路の痛みが激しく、スピードが一気に落ちました。3年前に走ったときと比べて道路状況はさらに悪化した印象(写真③,④)です。コンテナトレーラーや路線バスはかなり慎重に走行しないと横転したりして大事故になりそうです。
③ 3年前に走ったときと比べて道路状況はさらに悪化した印象
④ 3年前に走ったときと比べて道路状況はさらに悪化した印象
しかも、通訳ガイドによれば、4~5年に1度、ヤンゴンを含む下ビルマは雨期の雨量が過剰になるらしく、今年はそうした年に当たったとのことです。85号線沿線は、左右ともに一帯の村々が冠水しているようでした(写真⑤)。大半の家屋は高床式に造っているため住民の生命に大きな損害はないようですが、ボートなしでは孤立して、長期に食料供給が途絶えれば人命にも影響するするだろうと思いました。
⑤ 85号線沿線は、左右ともに一帯の村々が冠水
コーカレイ~エインドウ区間はアジア開発銀行(ADB)の支援により道路を修復中で、拡幅工事中の箇所も見ました。ただ、まだ工事は初期段階の印象で、完全補修までにはまだ数年かかるのではないでしょうか。
東西回廊ミャンマー区間の道路整備の優先順位を事前調査した2014年のJICAレポートによれば、この区間の道路維持管理はAye Ko (AK) Familyという民間企業がBOTで担っているはずですが、機能していないため、ADBが登場したのだと推測します。
モーラミャインからミャワディまでのルートには、ジャイン・コーカレイ橋、アトラン橋、ジャイン・ザタピェン橋の3つの大きな橋梁があり、中でもジャイン川を渡すコーカレイ橋は、1,400km超におよぶ東西回廊全体のなかで最大のボトルネックと言われています。
上述JICAレポートによれば、この橋は1999年に中国の支援によってミャンマーの公共事業省が建設したものですが、現在は老朽化が激しく、重量車両が通れば崩落のリスクもあるといいます。そのため、橋と平行して、「浮き橋(pontoon bridge)」(写真⑥)が設置されており、トラックやバスはそちらを通らなければなりません。
我々が乗ったトヨタハイエースはこの橋を通りながら、その浮き橋を見下ろすことができましたが、川の水位上昇のせいだと思いますが、西側の岸の手前が水没しているようで、車列が停滞し、後方に大型車両が数珠つなぎになっていました(写真⑦)。後日、ヤンゴンの日系物流企業へのヒアリングの際、同社が運行しているバンコク~ヤンゴン間の混載サービスがこの雨期は立ち往生していると聞きました。
⑥ 「浮き橋(pontoon bridge)」
⑦ 西側の岸の手前が水没して車列が停滞
いずれにしろ片側通行で一度に1台ずつしか通せないこの浮き橋の現状は、東西回廊全体のなかで、雨期でなくても最大のボトルネックに違いないと思います。バンコク~ヤンゴンの陸路物流本格化のためには、いずれ新しい橋の建設が必要になるでしょう。
実はこの橋を渡った後も、85号線の道路状況が非常に悪く、運転手と通訳ガイドは乗客の我々の許可を仰ぐまでもなく、途中で西方向への迂回路をとりました。
図2には示されませんが、この迂回路はエインドウ~モーラミャイン間の道路にその中間あたりで突き当り、そこから北上すればエインドウ経由でパアンまで行けます。彼らによれば、前々日にヤンゴンからミャワディまで我々をピックアップするために85号線を通った際、大型車が座礁して立ち往生したので、少し遠回りしてもこの迂回路を通るのがベストだということでした。
確かに、それまで走っていた85号線のひどい状況に比べ、この迂回道路は舗装がまだ良好でカーブも少なく、スピードが2~3倍(50~60km/h)は出ていました。ただし、この道路の左右も一帯が冠水していて、家屋はさほど密でないものの、両側とも湖のようでした(写真⑧)。
また、この迂回道路は舗装状況がよい一方、ところどころ、木製(土台は金属だと思うが)の小さい橋(写真⑨)があり、これらは重量制限が5トンなので、こちらもトラックやバスの救いにはなりません。
⑧ この道路の左右も一帯が冠水
⑨ 木製(土台は金属だと思うが)の小さい橋
パアンはヤンゴンとミャワディを結ぶ中間点にあたり、交通の要衝としての重要性が高く、市内にはパアン工業団地もあります。
2013年1月のジェトロ報道によれば、同工業団地はカイン(カレン)州政府による州内の雇用促進策を背景に、2011年から地元デベロッパーが造成を開始し、開発面積約400ha(東京ドーム40個分)と広大なものです。外国投資家用、ミャンマー企業用、民主カレン仏教徒軍(DKBA)の退役軍人用、中小企業用の4ブロックに分割されているといいます。
今回、アポはなしですが、この工業団地を横切る幹線道路を中心にざっと視察しました。幹線道路の左右に目視できた操業中の企業としては、縫製企業3つ(うち1つは後述のUMH、もう1つはFull Tex Co., Ltdという名前)、トタン屋根メーカー(SKKという名前、写真⑩)などでした。造成中の敷地が何件か見えました。
「UMH Industrial Park:Warmly welcome(小さい字でASEAN Mekong region east & west corridor Kayin State, Hpa-an Industrial Hubと書いてある)」という看板(写真⑪)のある交差点には立派そうな縫製工場建屋があり、従業員の住み込み寮と思われる建屋も見えました。
上述ジェトロ報道によれば、2012年11月にミャンマーの地場縫製企業UMHが同社3つ目の工場としてここの設立したもので、開所式にはカイン州知事を始め、UMHと取引のある日系商社など200人余りが参加したそうです。
しかし、今回の視察では、UMH社が用意した近接の工業団地用地は整地されているものの、入居企業は見当たらず、開店休業のようでした。また、通訳ガイドが見つけた工業団地事務所の建物は、誰も人がおらず、敷地が荒れ放題のようでした。
工業団地の奥の区画にTechnical Training School for National Youth in Border Areas(写真⑫)という施設を見かけ、看板のある角を曲がって奥へ走ると、緑色の屋根の学校施設があり、生徒が住んでいる気配がありました。
パアンは確かに交通の要衝であり、地元資源を有効活用しようという州政府の意図は間違っていませんが、パアン工業団地は勇み足で停滞気味のような印象でした。その最大の要因は上に見たように、85号線の道路インフラ不足でしょう。タイとの越境経済統合形態としては、現状では、タイ企業がパアンに投資するよりも、パアンの労働者がタイへ出稼ぎに行くほうがずっと簡単だと思います。
⑩ トタン屋根メーカー(SKK)
⑪ 「UMH Industrial Park:Warmly welcome」の看板
⑫ Technical Training School for National Youth in Border Areas
パアンはカイン州の州都です。街の様子はいかがでしたか?
ミャワディと比べれば、パアンは都会という感じです。3年前と比べ、宿泊施設はかなり充実してきており、今回はインターネットで予約できる快適なホテルに泊まれました。タイから流れてくる消費財が豊富な印象です。パアン中心部の時計台に近いPhoe La Min Shopping Center(写真⑬)という4階建ての小ぶりのデパートをざっと見ました。1階が家電品中心、2階が衣料品、3階が雑貨、4階が玩具・ファストフードといったところです。家電品はすべて新品で、地元のややハイエンド層を対象としているようです。ミャワディで見た大量の中古冷蔵庫はこの店舗では売られていませんでした。
冷蔵庫や炊飯器(松下ならぬMitsushitaというブランド)などはタイで製造された日本ブランドが多いです。マンダレーあたりだと中国製の中国ブランドが優勢なのでしょうが、地理的優位性からメイドインタイランドがここでは優勢のようです。興味深いことに、ミャンマー人が弁当を入れる金属製のランチボックスは、タイ製と中国製が競争していることです(写真⑭)。タイ製の値段が中国製の3倍ほどしますが、品質の違いかもしれません。
⑬ Phoe La Min Shopping Center
正面入口
⑭ ミャンマー人が弁当を入れる金属製のランチボックス
市街で見かけるオートバイ販売店もタイで製造したホンダが多いようです。通訳ガイドさんによると、パアンには中古車ディーラーはいないとのことです。つまり、国境で見た日本の中古車はパアンまでは大量に流れていないということです。通ってきた85号線の状況を見るに、中古車をパアン経由で大量にヤンゴン方向へ陸路輸送するのは、あの浮き橋を利用することになるので、困難でしょう。
パアンからモーラミャインまでの移動も、サルウィン川の氾濫で迂回路を余儀なくさせられました。
パアンからモーラミャインまで何も問題なければ、まっすぐ南へ下がる57kmの最短ルート(図2の直線部分)を90分程度で行けるところでしたが、サルウィン川の氾濫で、その道路を通れませんでした。したがって、前日通ったエインドウまで戻り、そこの分岐点から南東方向に下ってモーラミャインへ至るルートをたどりました。パアンからエインドウまでが22km、エインドウからモーラミャインまでが40kmと、多少遠回りになりました。
上述JICAレポートによれば、85号線途中で前日渡ったNaung Lon橋からコーカレイの区間、エインドウ~モーラミャインの区間、そして今回通れなかったパアン~モーラミャインの最短区間の3区間がBOTによるAK Familyの維持責任となっています。しかし、85号線の区間は痛みが激しく、ADB支援による補修が待たれます。
エインドウから南へ右折して、前日通った迂回路を走りましたが、この日はスコールで左右の「湖」がこの迂回路も覆うのではないかという恐怖を感じました(写真⑮)。
⑮ スコールで左右の「湖」が迂回路も覆う恐怖感
前日のコーカレイ方面からの分岐点までは道路状況が良好ですがその分岐点を超え、パアン~モーラミャイン道路と合流し、州境を越えてモン州に入ると、対照的に舗装状況は悪くなりました。85号線ほどひどくはありませんが、穴が多かったです(写真⑯)。
⑯ 85号線ほどひどくはありませんが、穴が多かった。
このルートの後半は2つの川を渡ります。ジャイン(Gyaing)川を渡す、ジャイン・ザタピェン(Gyaing Zathaphin)橋は1999年に完成した吊り橋(写真⑰)、ジャイン・ナクワ(Chaying Hnakwa)川を渡すアトラン(Atran)橋は1998年に完成した斜張橋(写真⑱)で、資材と技術は中国によるものです。どちらも重量制限が30トン、制限速度は16km/h。
上述JICAレポートによれば、この2つの橋も老朽化が進み、2013年にミャンマー政府が補修しましたが、Atran橋のほうは鋼鉄地面がすでに歪みを生じているとのことです。
また30トンを超える重量車両は重量制限60トンのタルウィン橋・タトン経由へ迂回させられているようです。ただ、上述のコーカレイ橋と比べれば、ボトルネック度は低そうです。
⑰ Gyaing川を渡すGyaing (Zathaphin)橋は1999年に完成した吊り橋
⑱ Chaying Hnakwa川を渡すAtran橋は1998年に完成した斜張橋
結局、今回の遠回りルートでも、パアン市街からモーラミャイン市街まで90分程度で到達できました。最短ルートを通る場合と比べて、所要時間は大きく変わらないと思います。
ADBの東西回廊のインド洋側の起点はモーラミャイン。6年前と比べてモーラミャインの印象は?
モーラミャインは6年前に初めて泊まり、今回は2回目でした。風光明媚な港湾都市というイメージは変わりませんが、全体的に街の雰囲気が垢抜けてきた印象を持ちました。前回と同じ河岸沿いのホテルに泊まりましたが、各段にグレードアップされており、ヤンゴンからの社員慰安旅行グループが2社、イベントでホテルを使っているのを見ました(写真⑲)。河岸通り(ヤンゴンと同じ名前でStrand Road)には映画館や新しいリバービューレストランができています。
6年前にも入ったBone Gyi Restaurant(写真⑳)というレストランは前回はブリキ製のテーブル、プラスチック製の椅子など、質素な食堂という記憶ですが、今回はハイエンドのレストランに変身していました。
⑲ ヤンゴンからの社員慰安旅行グループ
⑳ Bone Gyi Restaurant
夕食に、やはり河岸通りに見かけたMy Mawlamyaine(写真㉑)という新しいきれいなレストランに入ったところ、メニューを見ると、すべてタイ料理でした。我々の後から30人ほどのタイ人のビジネスグループが入ってきました。それもそのはず、店主のおばさんはタイ人で、その手伝いをしている英語が達者な息子さんは高校時代、大阪に1年間交換留学したことがあるとのことでした。ミャンマー人ウェイトレスはバンコクのヤワラート(チャイナタウン)で7年間過ごした経験があるといいます。
ミャワディからパアンを経てモーラミャインまで、タイとの経済統合は観光面が先行しているようです。6年前、モーラミャインは歴史もあり風光明媚なので、宿泊・飲食施設がもっと充実すれば観光地としてのポテンシャルは高いと思いましたが、その方向に少しずつ進んでいると感じました。
㉑ My Mawlamyaine
一方で、これも6年前に感じましたが、モーラミャインが東西経済回廊の起点というのは無理があります。見るべき産業集積がないうえに、観光産業にしても、回廊の東端のダナンとは比べものになりません。
ただし、工業都市を目指すよりは観光都市を目指すほうが比較優位があると思います。観光資源としてポテンシャルがありそうなのは鉄道インフラです。ヤンゴン方向からタンルウィン川を渡す鉄橋を経て、モーラミャイン市街の線路は高架になってさらに南へ、戦時中の泰緬鉄道の終点タンビュッザヤまで延びています。ベトナム南部のダラット高原では一区間だけ風光明媚な田園を観光列車が運行しています。モーラミャインもタルウィン河岸(写真㉒)沿いに「夕陽列車」を走らせるみたいなアイデアがあってもよいと思います。
㉒タルウィン河岸
モーラミャインからヤンゴンへ
この区間はヤンゴン~マンダレー区間のちょうど半分ほどの距離です。モーラミャイン市街を出て約10分でタンルウィン橋を渡ります(写真㉓)。全長3,529mと国内最長で、2005年にミャンマー政府が建設したものです。自力でこの規模の橋を建設できるというのは、ミャンマーのエンジニアの実力の高さを表していると思います。橋の入り口で線路が右側から合流し、橋の上で並行します。
㉓ モーラミャイン市街を出て約10分でタンルウィン橋を渡る
モーラミャインからピヤージPyiyagyi(バゴーの手前でマンダレー方向に分岐する地点)までの8号線の区間は道路幅7mで路肩なし、維持管理は大手財閥Shwe Than Lwinグループ(写真㉔)のBOTによっており、この区間に料金所が4つあります。
㉔ 維持管理は大手財閥Shwe Than LwinグループのBOT
モーラミャインからタトンまでの8号線(写真㉕)は、舗装状況は痛んでいる箇所は多いものの、40~50km/hで走行可能です。交通量もさほどありません。ただし、路肩がないので右ハンドルの車での追い越しには注意が必要です。
㉕ モーラミャインからタトンまでの8号線
タトン市街地前後で大型車両が増え、スピードが落ちます。上述JICAレポートによれば、タトンの中心部を通る85号線は、今後交通量が増えて渋滞がひどくなることが見込まれるため、8号線と合流する別のバイパスルートを建設省が検討しているようです。タトンの郊外へ抜けると交通量が減り、スピードが上がります。
その後、目立ったボトルネックは気づきませんが、路肩がないので、終始追い越しは引き続き慎重さが必要です。何度か鉄道と交差する箇所では片側通行(写真㉖)となり、待ち時間となることもあります。
㉖ 鉄道と交差する箇所では片側通行
パヤージPayagyiの分岐点を西へ左折し、ここから1号線に変わります。この分岐点を北へ直進すればネピドー・マンダレー方面です。1号線は道路幅が広く、路肩もあります。8号線に比べて路面の舗装状況は良好ですが、一方で、マンダレー方面からの交通と合流するため、交通量が増えます。バゴー市街前後はとくに交通量が増えます。
この分岐点から道路の維持管理はMAXグループに代わります(写真㉗)。2015年のジェトロ報道によると、同グループの社長は50代で日本滞在経験があり、日本語が堪能、不動産開発やガソリンスタンドで財を築いたといいます。仏アコーと共同でノボテル(Novotel)を開業しました。
バゴー郊外に出ると、中央分離帯付き片側3車線の広い道路がそのままヤンゴンまで続きます(写真㉘)。2008~9年に建設されたもので、路面は多少痛んでいますが、交通量が多くてもこの広さならスピードは落ちません。ガイドさんによると、トラックなど商用車はこの道路を主に夜中に走るので、昼の時間帯は空いているそうです。
㉗この分岐点から道路の維持管理はMAXグループ
㉘ バゴー郊外に出ると中央分離帯付き片側3車線の広い道路がそのままヤンゴンまで続く
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