一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)

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コラム

2016/03/07 No.29シャープと鴻海精工〜デジタル敗戦の日を迎えて〜

大木博巳
(一財)国際貿易投資研究所 研究主幹

日本の家電産業再興の切り札、薄型テレビ

1999年1月にシャープは世界初の20型液晶テレビを発売した。薄型テレビ時代の幕開けであった。薄型テレビやデジカメ等のデジタル家電は、パソコンのように他国から入ってきた製品とは違い,日本で生まれ、日本の消費者が育てた製品である。最初に日本市場で市場が立ち上がり,次に米国、欧州で市場が拡大,そしてアジアなど新興市場で普及した。日本発の製品ということで日本企業が世界市場でイニシアチブを握れる可能性が高いと期待されていた製品である。とりわけ、薄型テレビはITバブルの崩壊で沈滞ムードにあった日本の家電産業の再興の切り札であった。

薄型テレビは市場が立ち上がった当初は、機器開発と市場の両面でも日本企業の存在感が極めて大きく,生産は日本に集中していた。薄型テレビは2001年では世界生産の86%が日本で生産されていた。しかし、海外でデジタル家電の市場が立ち上がるにつれて、日本生産の優位性も急速に薄れ、世界生産から日本が消えてゆく。2004には日本からアジアに薄型テレビの生産の中心が移っている。世界生産に占めるアジアのシェアは48.8%、日本の33.8%を上回った。2005年には中国生産が本格化してアジアが最大の組み立て拠点となっている。また,2007年には欧州市場向けの供給拠点としてポーランド、チェコ、スロバキアの中東欧で組立工場建設ラッシュが始まっている。世界に占める日本の生産は薄型テレビで2008年には8.4%にまで低下している。

日本生産のシェアは低下していたが、2008年頃でも日系企業ブランド品が世界市場の4割くらいは占めていた。当時のASEAN市場では、ソニーをサムスン電子が激しく追い上げていた。サムスン電子は、液晶テレビの価格をソニーより割安(サムスンがソニーの価格より1割程度割安感を出していた)にして、強烈な販売攻勢(1台購入したらもう1台おまけ)を仕掛けていた。そして、販売店には手厚いリベートが渡っていた。販売金額では、両社が激しくトップ争いを展開していたと記憶している。

シャープの社徳

世界の薄型テレビ市場における日本メーカーの凋落は、薄型テレビの普及率が高まり、製品の差別化も一段落して低価格競争に入り始めた矢先に、リーマンショック後の需要蒸発と日本経済の実力を超え円高が影響したものであると考えている。こうした外部環境に加えて、日本のテレビメーカーの経営戦略のミスも指摘できる。日経新聞に掲載された「シャープ追い詰めた「社徳」のなさ」(2016年3月1 日、日本経済新聞 電子版)という記事を読んで、筆者にも思い当たる節があったからである。

2005年に台湾の新竹で大手パネルメーカーAUO(友達光電股份有限公司)の幹部と面談することができた。その幹部によれば、かつて、ソニーが液晶パネルをAUOから調達できるかどうか値踏みにきたことがある。結果は、AUOは選択肢から外れて、サムスン電子と合弁で液晶パネル生産会社(S-LDC、2004年4月設立、2005年4月製品出荷)を立ち上げた。ソニーはAUOの資金力に疑問を持ったようである。

ソニーは、ブラウン管テレビの時代に、ベガブランドによって、世界市場の覇者として君臨していたが故に、薄型テレビ市場では出遅れた。さらに、世界のテレビ市場で知名度が高かったベガから薄型テレビでは新ブランド、ブラビアに切り替える賭けに打って出るリスクを抱えていた。ライバル各社は、すでに平面ベガの台頭を機にはブラウン管に見切りをつけて、2000年代の初頭には撤退や工場閉鎖など、脱ブラウン管の手を打ち終えていたという。一刻も早く液晶テレビを市場に投入しなければならないが、それには液晶パネルの安定的かつ大量の調達が不可欠であった。

当時、液晶パネルをいち早く量産していたシャープから調達すればすむ話と思われるが、シャープから調達はできなかった事情があったと思われる。

シャープは自社の液晶パネルを亀山と名付けてブランド化しようとした。汎用品をブランド化していたのはインテルのCPUである。シャープはそれを真似したといわれている。ブランド名を付けた液晶パネルを競合他社が使用するには、躊躇があった。

他方、液晶テレビで覇権を握ろうとしていたシャープからすれば、まずは自社向けが最優先となる。シャープの液晶テレビ戦略は、液晶パネル生産とテレビ組み立てを自社内で行う垂直統合モデルであった。また、シャープブランドは世界市場では知名度が不足、ソニーブランドには到底、太刀打ちできなかった事情もある。ソニーが不在のうちに世界市場を奪うという思惑もあったのではないか。

日経新聞に掲載された冒頭の記事、「シャープ追い詰めた「社徳」のなさ」によれば、東芝とソニーは、2010年ごろ、「シャープの堺工場(当時)から液晶パネルを購入する契約を結んでいたが、前年に導入された家電エコポイント制度の追い風で液晶テレビが飛ぶように売れ始めると、シャープは自社製テレビへの供給を優先し、ソニーと東芝への供給を制限」したという。これによって業界から評判を落とした。シャープは自社を優先して囲い込む戦略から脱却できなかったようである。

シャープの行動と対照的なのはサムスン電子である。サムスン電子は、生産したパネルを競合他社にも販売していた。外販に当たっては、自社と他社を区別せずに、競争させていた。もっと賢い点は、ソニーと合弁で生産した液晶パネルを上手に使っていたことである。例えば、サムスンは、液晶テレビの販売に当たって、ソニーと同じ工場で生産されたパネルを使っていますと喧伝して、販売促進に役立てていた。ブランドメーカーであるシャープには、パネルを積極的に外販する知恵はなかったようである。

鴻海精工の横顔

今回、シャープを買収する鴻海精工は、製造に特化した企業(EMS:電子製品受託生産サービス)で、自社ブランド品は販売していない。鴻海精工は郭台銘董事長が一代で築いた会社である。郭氏は1949年に外省人2世として台湾で生まれ、警察官の家庭で育った。学歴は海事専門学校航運管理科卒である。創業は1974年、資本金30万元、従業員15名ではじめた。かつて、鴻海精工の株主総会に出席した日本人から聞いた話であるが、総会で株主から増配要求が出たときに、郭台銘董事長はそれを一蹴して、配当の高い企業の株を購入することを勧めたという。強烈な個性の持ち主である。

創業当初は、プラスチック成形品の加工業で、テレビ高圧陽極キャップ部品の製造が主体であった。80年代初め日本での市場調査でコネクタの将来性に目をつけ、コネクタとケーブルアレイに転換した。そして拡張用メモリーモジュールをパソコンに装着するためのソケットが、成功の第一歩となった。

鴻海精工は、台湾企業を相手にせず、米国の大手企業に売り込むことで技術を磨いた。米国ヒューストンのコンパック社の近くに成型工場を作り、郭台銘氏が自ら乗り込んで販路の開拓に努めた。やがて、インテル社から優良マザーボードメーカーに指定され、同社とのデザインインで新しいCPUの対応コネクタを開発するようになった。インテル社がPentiumを普及するためマザーボードを大増産した1995年には鴻海精工の売上げが急伸し、110億元(1元は約3.4円)になった。

2000年には売上高が1,000億元大台乗せ寸前となった。これは、90年代後半に、ベアボーン(パソコン半製品)によってもたらされたものだった。1996年に中国東莞に作った筐体工場で、筐体に電源などを組み込んだベアボーンを、米コンパック社に供給した。ベアボーンは、低価格PCブームに火をつけ急速に普及した。鴻海精工のベアボーンは、2000年には2,400万台規模の大型商品になった。そのなかには、アップルコンピュータ社のヒット商品iMac2向けが含まれていた。

EMSのビジネスモデルは、大量生産、大量調達による薄利多売にある。鴻海をはじめとするEMSの課題は、薄利多売からの脱却、少しでも利幅を上げることにある。鴻海精工は利幅を上げるために、パネル生産や金型の内製化など部材や機材を自社生産に置き換えて貪欲までに利幅の改善に努めた。その結果、鴻海精工は、部品生産や最終製品の組み立て、部材や機材の自社生産、さらにはサービスに至るサプライチェーン全体を自社の傘下に収める垂直統合を進めて、巨大化してきた。

垂直統合を進めるに当たって、鴻海精工は、積極的な企業買収を行っている。2000年代の初めに鴻海の企業買収を調査したことがあるが、ベアボーンでは華升電子(組立て)と広宇科技(光ディスク)、マザーボードでは建邦科技事業を傘下に収めた。2003年には、宏碁子会社の国碁電子(ネットワーク機器)を吸収合併、グラフィックカードメーカー撼訊への出資、フランストムソングループ傘下の光学読取ヘッドメーカー(深圳)の買収など。2005年には、通信機器メーカー奇美通訊、および光ディスクドライブ・メーカーの英群企業に資本参加した。組み立て工場の買収としては、2003年にモトローラのメキシコ携帯電話工場、フィンランドの携帯端末カバーメーカーエイモがある 。2005年に買収したヒューレット・パッカードのインドとオーストラリアの工場は、デスクトップパソコンを生産していた、など等枚挙にいとまがない。

今回、シャープを買収することで鴻海は自社ブランドを所有することになった。サプライチェーンの中で唯一欠けていた部門である。台湾企業は、世界的に通用する家電ブランドを持っていなかった。かつて、台湾の専門家は、台湾企業の家電ブランドとして米市場で液晶テレビの販売を伸ばしていた台湾系米国人が起こした新興企業VIZIOを上げていた程度であった。

デジタル敗戦

台湾企業を育てたのは日本企業である。液晶パネルでみると、1990年後半に韓国で液晶パネル生産が始まった。日本から技術や生産ノウハウが移転したためである。韓国メーカーが日本の生産設備・装置メーカーや主要コンポーネント(カラーフィルター、ガラス基盤や偏光板等)メーカーといった川上分野の企業との連携を強化したことにより、韓国のTFT-LCD産業が急成長した。サムスンやLGフィリップの韓国勢の台頭に懸念を感じた日本企業は,2000年から台湾企業に技術供与を開始、生産設備・装置や主要コンポーネントも台湾へ輸出するようになった。

台湾のパネルメーカーがTFT-LCD生産を本格化させたのは2002年からである。台湾はパソコンのOEM生産(相手先ブランド受託生産)において既にサプライヤーとしての基盤を構築しており,当時、台湾は既に世界のノートPC市場の6割近くのシェアを有しており、TFT-LCDベンダー企業の事業拡大と相まって,中国には台湾メーカーによるノートブックを始めとするTFT-LCD等,IT製品のサプライチェーンマーケットが確立されていた。技術移転を受けた台湾メーカーは,ノートPCの大陸投資解禁とともにTFT-LCDモジュールの組立生産拠点(後工程)を中国、とりわけ江蘇省を始めとする華東地区に移転させた。その後、韓国、台湾パネルメーカーは不断に投資を行い、第4、第5、第6世代とパネル生産ラインを拡張し急成長を遂げ、世界のTFT-LCDパネル市場のトップを争うようになった。

また、液晶パネルで日台のシェア急逆転の一因として、国際標準の存在がある 。1999年にデル社、IBM社、コンパック社、HP社、東芝の5社は、ノートPC向け液晶パネルの標準規格(SPWG)を制定した。大きさ、本体とのインターフェース、ねじ穴の位置などが定められており、SPWGに満たないパネルは原則として調達対象にならない。米各社が調達費削減を狙って制定したものだが、日本メーカーの強みである画面の美しさ、応答速度や視野角などの仕様はほとんど織り込まれず、当時まだ技術水準が低かった韓国や台湾に、活躍の場を与えた。

日本から技術移転を受けた台湾メーカーは、大規模投資を行った。液晶部材では、ガラス、偏光膜は輸入に依存していたが、カラーフィルター、バックライドなどを含め、有力日本メーカーが大挙台湾への投資を行った。液晶パネルの国際競争はさらに激化し、日本メーカーの地位はさらに低下の一途をたどった。

台湾企業が成長できたのは、日本から最新設備を導入して最新の技術を獲得できたことが指摘できる。台湾の液晶パネルメーカーは日本の最新設備を,ほぼそっくり導入して、まさに日本メーカーの工場をほぼコピーであった。台湾企業は、先行メーカーと同じ工場を後から立ち上げながら,コスト競争によって必ずシェアを取れるという自信を持っていたという。その理由は、日本から輸入した最新設備には、日本企業が試行錯誤を繰り返して獲得した製造ノウハウの暗黙知がぎっしり詰まった機械であったことにある。技術流出には、技術ライセンス、機械や設備に体化された技術流出、製造に必要な図面やノウハウの流出,人を通じた流出などがある。日本からの最新設備の導入が、台湾や韓国企業にとって後発者利益となっていた。2004年にシャープの亀山工場を見学した時に、微に入り細にわたる技術流出の防止策を説明してくれたが、それも役には立たなかったようである。

日本の家電ブランドメーカーは、格下と思っていた韓国や台湾の新興企業によって、打ち負かされた。それは、新興企業の貪欲な事業拡大意欲に負けたといってもよい。韓国や台湾は自国に十分大きな国内マーケットを持っていないが故に、海外市場開拓や大手ブランドの下請けとして活路を見出してきた。サムスン電子は、初めから日本の薄型テレビ市場には関心がなかったという。というよりは無視していた。それでもサムスン電子は、日本市場で存在感がなくとも、薄型テレビの世界市場でトップになることができる。日本の薄型テレビ市場を囲い込んだシャープは、世界市場では敗退してしまった。また、技術的に優位性をもっていても、技術力だけでは競争に勝てなかった。

鴻海精工がシャープを買収する日は、日本のデジタル敗戦日になろう。しかしその日から新たな飛躍が期待される出発の日でもある。シャープが描いていた夢を鴻海精工が遂げてくれるのかもしれない。

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