一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)

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コラム

2023/05/01 No.112交渉が進展するIPEF(インド太平洋経済枠組み)~国境を越えた個人情報やデータローカライゼーションのルール化に新たな動き~

高橋俊樹
(一財)国際貿易投資研究所 研究主幹

年内の成果を示唆

米中貿易摩擦や新型コロナウイルス感染症の拡大により表面化したサプライチェーンの脆弱性などを背景に、ジョー・バイデン大統領は2022年5月23日、IPEF(インド太平洋経済枠組み)を東京で立ち上げた。IPEF発足時の参加国は日韓やインドなどを含む13か国で、立ち上げから3日後にフィジーが加わった。また、カナダの外相は同年10月、IPEFへの参加の意向を表明した。

IPEFは2022年9月にロサンゼルスで初の対面閣僚級会合を開き、①貿易、②サプライチェーン、③クリーンエコノミー、④公正な経済、の4つの柱に対する交渉目標を設定した。12月にはブリスベンで第1回交渉官会合、翌23年2月にはニューデリーで特別交渉会合、3月にバリで第2回交渉官会合を開催した。

キャサリン・タイ米国通商代表部(以下、USTR)代表は23年4月中旬、フィリピンと日本を訪問し、5月8日~15日にシンガポールで開催予定の第3回交渉官会合に先立ち、IPEFのデジタル貿易や労働問題などについてすり合わせを行った。タイUSTR代表は東京で記者会見し、IPEFの交渉が速いペースで進展しており、他の分野に先行した合意(アーリーハーベスト)を含めて、年内にも成果が出る可能性があることを示唆した。

米国はなぜIPEFを立ちあげたのか

TPP(環太平洋パートナーシップ)は、米国の主導により2015年に大筋で合意に達した。それにもかかわらず、ドナルド・トランプ前大統領は2017年初にTPPからの離脱を決定した。一旦はTPPの存続が危ぶまれたが、日本が強いリーダーシップを発揮することにより、TPPを受け継いだCPTPP(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)が2018年末に発効した。

その後、英国は2021年2月、中国も同年9月にCPTPPへの加盟申請を行った。中国の意表を突いた動きが、米国のCPTPPへの加盟を妨げる効果をもたらすことになった。そして、日中韓やASEAN10か国などが参加するRCEP (地域的な包括的経済連携協定)が2022年から発効した。

その結果、CPTPPとRCEPの両方に加入していない米国は、アジア太平洋地域におけるプレゼンスの低下の危機に直面することになった。すなわち、米国が同地域で傍観者としてとどまることを避けるには、これまでのFTAとは一線を画す新たなプラットフォームを有する貿易モデルの創設が求められるようになった。

また、バイデン政権においては、関税削減等で自由化を促進する従来型のFTAは、中国の不公正貿易や補助金の撤廃にあまり効果的ではなく、貿易赤字の削減に結びつかないと見られていた。さらには、米国は半導体、大容量バッテリー、レアメタルなどの製造におけるシェアの低下と中国への依存の高まりに直面しており、サプライチェーンの脆弱性からの脱却が喫緊の課題であった。

すなわち、米国のアジア太平洋地域における影響力の低下が危ぶまれる中で、従来のFTAでは米国のレジリエンス(回復力)の強化には不十分であり、半導体等の分野では一層のサプライチェーンの強靭化が求められていたことから、バイデン政権は従来とは違う新たな経済枠組み(すなわちIPEF)の導入を検討するに至った。

米国はIPEFを立ち上げるに当たって、サプライチェーンを信頼できる国々に限定して構築する「フレンド・ショアリング」(注1)の考えを踏襲しながら参加国をスクリーニングしており、中国がその候補として検討されることはなかった。また、バイデン政権は議会での審議を通さずにIPEFを成立させようと考えていたこともあり、関税削減を含む市場アクセス分野がIPEFから除外された。

その代わりに、IPEFの貿易の柱にデジタル経済や労働などの新たな枠組みを盛り込むとともに、サプライチェーンの柱に参加国間で連携する「情報共有と危機対応のメカニズム」などを導入した。したがって、その誕生の背景を考慮すると、IPEFは本質的に対中政策を念頭に置いた外交的で経済安全保障を重視した新経済枠組みであると考えられる。

IPEFが従来のFTAと決定的に違うのは何か

IPEFは米国が直面している半導体や大容量バッテリー、あるいはレアメタルなどのサプライチェーンの脆弱性からの脱却を目指すものであり、アジア太平洋地域での米国のプレゼンスの低下を防ぐ新たなツールでもある。

その枠組みの大きな特徴は、まず第1に、FTAのような包括的なものではなく(TPPは全体で30章から構成されている)、特定の分野(4つの柱)に的を絞ったものであるということである。

バイデン政権は、IPEFの構成をデジタル経済やサプライチェーンなどの米国の関心の高い分野に特定化することを狙っただけでなく、各参加国に4つの柱への参加や合意を柔軟に選択できるように配慮している。さらに、IPEFの柱の中に労働・環境などのルールを盛り込むことで、製造業の労働者や零細・中小企業に資する協定になることを目指したと思われる。

第2の特徴は、関税削減という従来のFTAではメインとなる分野を盛り込まなかったことだ。これは、TPA(大統領貿易促進権限)が2021年7月に失効している中で、議会でのIPEFの審議を避けるためだけではなく、労働者や零細・中小企業からの根強いFTAによる関税削減への反対を考慮したためでもある。

また、第3の特徴として、WTOにおけるシングル・アンダーティキング(交渉は個別分野ごとに行われるものの、最終的な合意は全ての交渉対象分野が一つのパッケージとして扱われ、加盟国は全体として合意するかしないかの選択を迫られる一括受諾方式)に依拠していないことが挙げられる。

すなわち、IPEF加盟国は合意の条件として全ての交渉分野の完了を待つことはなく、個別の分野ごとに合意することができる。これは、サプライチェーンなどの柱が、他の柱に先んじて合意すること(アーリーハーベスト)が可能であることを示唆している。

こうした柔軟なスキームを持つIPEFは、その分だけ拘束性や強制力に欠けることになり、加盟国が十分な経済的メリットやインセンティブを感じ難い可能性があることも否定できない。

IPEFの交渉分野における各国の障壁

IPEFの4つの柱において、バイデン政権が高い優先順位を与えているのは、第1と第2の柱である貿易とサプライチェーンの分野であることは疑いない。貿易の柱の中では、デジタル経済や労働・環境、そして農業と技術支援・経済協力が挙げられる。サプライチェーンの柱においては、情報共有と危機対応のメカニズムとともに地域協力の強化が考えられる。

第3の柱であるクリーンエコノミーでは、クリーンエネルギーや環境に優しい技術に関連するイノベーション能力や投資を高め、競争力の向上を図っている。第4の柱では、汚職の防止や撲滅、あるいは脱税の抑制を目指している。

こうした4つの柱の交渉は進展しているものの、IPEFは経済の発展段階や規模が大きく異なる参加国を抱えているため、依然として加盟国のデジタル貿易等の国内制度の中に非関税障壁を見出すことができる。

USTRが2023年3月末に公表した外国貿易障壁報告書(NTE)は、64か国・地域を対象にし、農産物貿易、デジタル貿易、産業政策、労働、貿易の技術的障壁などの分野における各国の障壁を取り上げている。

例えば、同報告書はタイでは特定の国を除いて個人データの国外への移転が制限されていること、ベトナムやインドにおいては、データを国内のサーバーに保存することを求めるデータローカライゼーション政策を採用していることを指摘している。さらに、ベトナムは限定されたプロバイダーのみを通じたインターネットへのアクセスを許可し続けるなど、インターネットを利用したコンテンツサービスにも厳しい規制をかけているようである。

また、同報告書は韓国が位置情報データに対して輸出規制を行っていることに加え、IPEFへの参加を目指すカナダが2021年12月に発表したデジタルサービス税(DST)法案もワシントンが警戒するデジタル政策の1つであるとしている。バイデン政権は、カナダのデジタルサービス税が導入されれば、米国企業に多額の遡及的な税負担が生じる可能性があることに深刻な懸念を表明している。

労働者の個人機密情報の保護を要望

IPEFの貿易の柱に含まれるデジタル経済は、当初においてはUSMCA(米国・メキシコ・カナダ協定)のように、国境を越えた自由なデータの移動を認めることやデータの現地化要求(データローカライゼーション)の禁止、あるいはソフトウエアのソースコードやアルゴリズムの保護、などを促進するルール作りを目指すと見られていた。

しかしながら、AFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)は、デジタル経済の進展とともに、AI(人工知能)の発展も相まって、労働者は一段と監視される社会になっているとし、デジタルルールが労働者、消費者などに及ぼす悪影響に対処する新しいアプローチが必要であるとしている。

そして、AFL-CIOは、USMCAでは「正当な公共政策の目的を達成するために必要な措置」を除き、国境を越えたデータの自由な移動を制限することを禁止し、ソースコードやアルゴリズムなどの開示を要求できないことを規定しているが、IPEFでは公共政策上の例外を広く活用し、政府の規制権を明示的に強化することで、労働者の個人機密情報やプライバシーの保護を促進すべきと主張している。この場合の個人機密情報として、医療、金融、職場で収集された生体認証データ、などを挙げることができる。

このAFL-CIOの見解は、インドネシアのバリでの第2回交渉官会合で米国が提出した「貿易の柱のテキスト」に盛り込まれた可能性がある。こうした労働界からの動きに対して、米国のビッグ・テック(いわゆるグーグル、アマゾンなどのGAFAM)は危機感を募らせ、政府の規制能力を制限するルールを求めて議会でのロビー活動を活発化していると伝えられる。

IPEFのデジタルルールにおける政府の規制権の強化は、ITビジネスの立場からすれば、ある意味では「USMCAマイナス」の要素として映ることになる。しかしながら、一方では、USMCAで新たに設けられた「事業所特定の迅速な労働問題対応メカニズム(RRM) (注2)」の形式を、IPEFでも取り上げようという動きがある。労働界やビッグ・テックの動きとともに、RRMのルール化についても、今後ともフォローしていくことが求められる。

IPEFの何に期待しメリットを感じているのか

米国の議会だけでなく、ビジネス界からもIPEFの交渉内容の透明性を要求する声が高まっている。バリでの第2回交渉官会合に参加したビジネス関係者のほとんどは、米国の代表であったとのことだ。IPEFの交渉内容とともに、経済的利益・効果の高さを米国以外の加盟国の企業関係者等にも公開する必要があると思われる。

マレーシアは半導体などの電気・電子産業において、IPEFを通じたサプライチェーンの強化を期待しており、インドネシアはIPEFを活用することで、特に米国とインドの市場へのアクセスを拡大したいと考えているようだ。また、IPEFに参加した発展途上国の多くは、IPEFの枠組みを介した米国や日本などからの直接投資の拡大を望んでいると伝えられる。

IPEFが関税削減のスキームを持っていないにもかかわらず、期待以上にデジタル経済やサプライチェーンの分野においてレジリエンスを発揮し、結果として企業の利益を拡大することができるならば、米国はRCEPやCPTPPへの不参加によるプレゼンスの低下やサプライチェーンの脆弱性を着実に補うことが可能になる。同時に、米国以外のIPEF参加国もIPEFのメリットを享受することになり、カナダに続いて加盟を申請する国も増えると思われる。

もしも、逆にIPEFの新たな経済枠組みが加盟国企業のインセンティブを高めることができなければ、IPEFへの期待感が薄まり、その分だけ米国のFTAなどを用いた伝統的な貿易政策への回帰やCPTPPへの復帰の可能性が高まることになると見込まれる。

  1. 米国は、新型コロナウイルス感染症の拡大や米中対立の激化を背景に、経済安全保障を目的として価値観を共有する友好国などに限定したサプライチェーンの形成を目指すようになった。この考え方は、「フレンド・ショアリング(friend-shoring)」と呼ばれ、バイデン大統領はその一環としてIPEFを立ちあげるに至った。
  2. USMCAはFTAの従来の国同士の紛争解決処理手続きに加えて、事業所特定の迅速な労働問題対応メカニズム(RRM)を新設した。その特徴は、従来の紛争解決処理と比べて、制裁手段に罰金や輸入禁止が加わり、制裁適用までの期間が1~1.5年から6か月以内に短縮されていることである。
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