2023/07/03 No.115IPEF(インド太平洋経済枠組み)のサプライチェーンでの合意と今後の交渉の行方~その3 バイデン政権の通商戦略が企業に与える影響と対応~
高橋俊樹
(一財)国際貿易投資研究所 研究主幹
ドナルド・トランプ政権の対中政策は、追加関税の賦課や輸入目標の設定などの2国間での交渉を主とする面が強かったが、ジョー・バイデン政権においては、各国との連携による多角的な手段によるものが多くなっている。サプライチェーン強化策であるフレンド・ショアリングに基づくIPEFの創設も、その一つと考えられる。その他には、バイデン政権はインフレ削減法(IRA) (注1)では電気自動車(以下、EV)の税額控除の新ルールを設け中国で処理された重要鉱物の使用を極力排除することを狙うとともに、CHIPS及び科学法(注2)では中国への半導体投資を抑制する条項を設けた。さらには、輸出管理法を強化し、半導体製造装置などの対中輸出を実質的に禁止する動きを見せている。こうした政策は、単に企業の中国に関わる経済取引だけでなく、グローバルな戦略にも大きな影響を与えている。しかしながら、IRAやCHIPS法などは、新たなビジネスチャンスを提供していることも事実であり、日本企業はバイデン政権の通商政策に対して多面的な対応を迫られている。
求められるIPEFのメカニズムを考慮したグローバル戦略
IPEF(インド太平洋経済枠組み)のサプライチェーンでの合意を受け、加盟国での国内承認手続きが完了すれば、サプライチェーンの柱での「情報共有と危機対応メカニズム」が機能することになる。その結果、何らかの要因でIPEF加盟国での部材の供給調達網が寸断された場合、日本を含む加盟国は、モニタリングで情報を共有し、互いに協力して部材を供給調達し合うことになる。
すなわち、日本企業はIPEF加盟国と協力してサプライチェーンの危機に対応することで、半導体等の安定的な供給調達網を実現しやすくなると考えられる。また、これからIPEF加盟国は各々の重要分野及び重要品目を特定し、サプライチェーンの危機対応メカニズムに対処することになる。
したがって、日本企業は米国企業に伍してIPEFを効果的に活用するためには、それぞれの加盟国との綿密な情報交換やサプライチェーンでの用意周到な対応策が欠かせない。さらには、加盟国がどのようなサプライチェーンの重要分野・品目を選択するのかを見定めながら、IPEFのメカニズムを考慮したグローバルな供給調達戦略を組み立てていく必要がある。
IPEFのデジタルルールが企業に与える影響
アプリ、音楽、ゲーム、その他のコンテンツ、あるいは関連する製品等のデジタル貿易の進展は、電子商取引(e-コマース)の増加や流通革命を通じて企業の販売・取引コストの削減を促し、新たなビジネスチャンスを生み出している。米国がIPEFの貿易の柱において、デジタル経済を取り上げたのは、米国の有望な成長分野であるデジタル関連産業のグローバル競争力の維持拡大を狙っているためと考えられる。
GAFAMなどのプラットフォーマー(基盤を提供する事業者)は、インターネットを通じた取引により流通革命を引き起こし、需要と供給のマッチングを容易にすることで新規ビジネスを開拓し、米国のさらなる経済成長の実現に貢献してきた。
グーグル、テマセク、ベインが作成した「e-Conomy SEA 2021レポート」によると、ベトナムのインターネット経済(e-コマース、オンライン・グローサリー、フードデリバリー、オンライン旅行、動画配信サービス、電子決済、デジタル保険、遠隔医療サービス等)は、2021年には210億ドルのGMV(一定期間における企業の売上の合計額)を達成しており、2025年には570億ドルにまで増加すると予測されている。同期間にインドネシアでは700億ドルから1,460億ドル、タイでは300億ドルから560億ドルまで拡大すると見込まれている。
急激に発展するIPEF加盟の発展途上国におけるデジタル経済は、GAFAMや日本企業に極めて魅力的なデジタル製品・サービスの新たな市場を提供する。バイデン政権はこうした発展途上国のデジタル経済の成長を取り込むために、IPEFにおいて新たなデジタルルールを導入し、加盟国間のデジタル貿易の拡大を促すことで、さらなるGAFAMなどの米国のデジタル産業の成長に結びつけようとしている。
そして、デジタル分野においても、日本やオーストラリアなどの先進国だけでなく、できるだけ発展途上国を巻き込みながら中国を包囲する通商戦略を展開しようとしている。
サプライチェーンやデジタル経済の枠組みへの中国の対応
これまでのアジア太平洋地域でのサプライチェーンの形成においては、中国が大きな役割を果たしてきたことは疑いのない事実である。中国はASEANや日韓との間で貿易と投資における強固な部材の調達供給網を形成してきた。
同地域における既存の供給調達網において、中国を排除したIPEFのサプライチェーンの枠組みが動き出すことになれば、中国はIPEF加盟国間で共有されるデータ情報や危機対応のメカニズムをシェアすることができなくなり、その分だけ同地域でのサプライチェーンの危機管理で不利になる。
したがって、中国は2021年9月に行ったCPTPPへの加盟申請が、TPP委員会で取り上げられない現状を考慮すると、RCEPなどの既存のFTAの活用、あるいは新たな枠組みを創設することにより、「IPEFにおけるサプライチェーンの情報共有や危機管理のメカニズム」に対抗するフレームワークを模索するものと思われる。
また、デジタル経済に関しては、中国は2021年11月1日、シンガポール、ニュージーランド、チリによって創設されたDEPA (デジタル経済パートナーシップ協定)への加盟申請を行っている。DEPAは、ニュージーランドとシンガポールでは2021年1月、チリでは同年11月に発効している。中国の加盟申請を受けて、DEPAの合同委員会は2022年8月18日、中国の加入手続きの開始に合意し、交渉に当たる作業部会の設置を発表した。
中国以外のDEPAへの加盟の動きとしては、カナダは2022年5月に正式な加盟申請を行っており、韓国は2021年9月にニュージーランドに加盟の意向を通知した。
中国政府高官は、DEPAメンバーと個人情報などの分野において技術面での協議や政策のすり合わせを行っており、デジタル経済における実際的な協力を促進する準備ができている、と表明した。これに対して、DEPAのメンバーは中国の加盟手続きに積極的に対応する旨の発言を行ったと伝えられる。
次々と打ち出される強硬な対中通商戦略
バイデン政権は2022年8月、気候変動政策などを盛り込んだ「インフレ削減法」を成立させ、米国で販売されるEVを対象にした新たな税額控除のルールを導入した。この結果、自動車関連メーカーがEV税額控除の適用を受けるには、「完成車が北米産」であること、「北米で製造されたバッテリー部材の価格における割合」及び「FTAを結んでいる国で処理されたバッテリー用重要鉱物の価格における割合」が一定以上であること、などの新たな条件を満たすことが必要になった。
また、バイデン政権はインフレ削減法と同時期に立法化した「CHIPS及び科学法」に基づき、米国における半導体製造施設への投資に際し補助金を得た企業に対して、ガードレール条項を設けて中国への10年間の半導体投資の禁止を求めた。
そして、CHIPS及び科学法の成立から2か月後、米国は中国向けに輸出される半導体や半導体製造装置に対して「輸出管理規則」の適用を一段と強化するため、暫定最終規則を公表した。バイデン政権は同規則の強化で半導体製造装置などの対中輸出を実質的に禁止することにより、中国企業の半導体製造能力の拡大を抑え、中国との半導体分野における競争で優位に立とうとしている。
大きい米通商戦略の企業への影響
バイデン政権の主導によるインフレ削減法などの新たな通商関連法の発効、さらには半導体製造装置等の輸出管理規則の強化などの通商政策は、米国企業だけでなく日本企業などにも大きな影響を与える。
バイデン政権がインフレ削減法の中に盛り込んだEVへの税額控除適用の新ルールは、日本や韓国及びEUの自動車関連企業の今後の北米市場におけるEV戦略に極めて大きなインパクトをもたらすことになる。日本を含む各国のEV関連メーカーは、完成車が北米で生産されていること、あるいは北米で製造された車載用バッテリーの部材の価格における割合が一定以上であることなどの条件を満たすことができなければ、米国におけるEVの販売において最大で7,500ドルの税額控除の適用を受けられなくなる。
日本の自動車関連企業は、現時点では米国でのEVの販売は小規模であるため、EUや韓国の企業と比べて相対的に税額控除を受ける必要性は大きくはない。しかしながら、近い将来においては、EVの完成車やバッテリーの北米での生産、FTA締結国での処理された重要鉱物の調達増などを実現しなければならないことは確実である。
さらに、バイデン政権における輸出管理規則の強化により、日米やオランダの企業の半導体の製造装置などの対中輸出に影響が現れることは間違いない。そして、CHIPS及び科学法のガードレール条項に基づく中国への半導体投資の禁止は、米国への半導体投資に対する補助金を申請している韓国や台湾の半導体企業に大きな影響を及ぼすと考えられる(注3)。
EV税額控除対策で北米への投資拡大は不可避
2022年央のインフレ削減法(IRA)の成立により、日本だけでなくEUや韓国などは、同法に盛り込まれたEV税額控除の新ルール適用に関する規則案(ガイダンス)に多大な関心を寄せることになった。
同規則案は2023年3月31日に発表されたが、ジェトロによれば(注4)、その規則案は、バッテリー部品の北米での生産比率や重要鉱物のFTA締結国での抽出比率を計算する場合、部品・鉱物ごとではなく、全体の部品・鉱物の価値を基準として判断すると規定している。また、正極活物質などのバッテリーの構成材料の製造過程がバッテリー部品の範囲に含まれず、さらにはFTA締結国の解釈の範囲を広げる内容となっている。
同規則案の内容を精査の上、日本や韓国及びEUの自動車関連企業は、重要鉱物の一定割合がFTA締結国で処理されていなければならないという条件はもちろんのこと、車載用バッテリーの部品における北米産の割合を高めること、さらにはEV完成車の生産を北米で行うことなどの条件についても、北米の生産拠点への投資拡大等により積極的にクリアしていくことになると思われる。
ビジネスチャンスが広がるヒートポンプや住宅設備関連分野
IRAは予算の多くをクリーンエネルギー分野に割いており、発効から10年間で気候変動対策費として3,910億ドルを支出する計画だ。具体的には、第1に、ヒートポンプ(注5)やエネルギー効率の高い住宅関連設備(断熱材、密閉材、ストーブ、窓・ドア・電気配線等)や家電を購入する世帯に、1万4,000ドルを上限に還付する。第2に、家庭での太陽光発電設備(PV)などについて、購入額の30%までを税額控除する。
第3に、太陽光パネル、風力タービン、バッテリーなどを製造するための設備投資、及び化学、鉄鋼、セメントの工場などで大気汚染を削減するための設備の導入に対して税額控除を行う。第4に、2032年までに建設を開始したCCS(二酸化炭素回収・貯留)などの関連施設を対象にした税額控除額を拡充する、としている。
建物の電化が叫ばれる米国であるが、これまでは掛け声だけにとどまり、あまり進展は見られなかった。その主な理由はヒートポンプなどの省エネ機器の価格が高いことにあった。しかしながら、IRAは省エネ家電・住宅設備の購入に対して、税額控除やリベート(払い戻し)の供与を盛り込んでおり、米国の建物の電化の動きが従来よりも進展する可能性がある。
例えば、ヒートポンプの導入に際しては、設備投資額の30%もしくは2,000ドルまで税額控除、あるいは8,000ドルを上限とするリベートの対象になる。また、住宅の所有者が2万5,000ドルの太陽光発電設備を2023年に設置する場合、従来の支援策で受け取れる税額控除額は最高5,500ドル(22%)であったが、IRAの施行により最高7,500ドル(30%)となる。
こうしたIRAのクリーンエネルギー関連の支援策は、米国の家計・企業だけでなく、ヒートポンプや蓄電池などの競争力が高い日本企業の対米ビジネスにも恩恵を与えると思われる。
注
- インフレ削減法(The Inflation Reduction Act of 2022、IRA)は、歳出規模を今後10年間で約5,000億ドルに縮小する一方で、歳入を15%の最低法人税率などの導入により7,380億ドルに引き上げることで財政問題を解決するものとなっている。インフレ削減法案の歳出の内訳を見てみると、気候変動対策費は今後10年間で約3,900億ドル、医療保険改革支出は約1,000億ドルを見込んでいる。同法案は、上院では2022年8月7日、下院では8月12日に可決され、バイデン大統領により8月16日に署名された。
- CHIPS及び科学法の歳出総額は、5年で約2,800億ドルであり、その多くはエネルギー省や商務省、国立科学財団(NSF)、国立標準技術研究所(NIST)といった連邦政府機関の半導体関連の研究開発プログラムなどの予算となる。また、同法は産業界への資金援助を伴う半導体インセンティブ制度向けの予算として5年間で527億ドルを盛り込んだ。この他に、国内半導体工場向け投資を促進するための240億ドル程度の税額控除を含む。なお、CHIPSはCreating Helpful Incentives to Produce Semiconductorsの略である。
- 詳細は、「急速に変化する韓国の貿易と投資~低い対日貿易でのFTAの関税削減効果~」、国際貿易投資研究所、季刊国際貿易と投資132号、2023年6月、を参照。
- 「韓国政府、インフレ削減法のEV税額控除の規則案を歓迎」、ジェトロ ビジネス短信、2023年4月7日。
- ヒートポンプは、エアコンや冷蔵庫などに利用されている省エネ技術。CO2排出量も大幅に削減可能であることから、気候変動対策にも貢献できる。