一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)

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コラム

2023/08/28 No.117IPEFは永続的な経済協定になりうるか

高橋俊樹
(一財)国際貿易投資研究所 研究主幹

ジョー・バイデン政権はIPEF(インド太平洋経済枠組み)における2023年内の交渉妥結を目指しており、その一環として5月末に4本柱の一つである「サプライチェーンの柱」で早期合意を達成した。こうした動きの中で、議会の承認を求めないIPEFが、バイデン政権後も永続性を保ち続けるかどうかを懸念する声も上がっている。IPEFへ参加するインセンティブやメリットの問題を含めて、その将来像や今後の動向について展望する。

迅速に進められたこれまでのIPEF交渉

IPEFは、表1のように、2022年5月に東京で立ち上げられた。9月にはロサンゼルスで初の対面閣僚級会合を開き、①貿易、②サプライチェーン、③クリーンエコノミー、④公正な経済、の四つの交渉目標を設定した。12月にはブリスベンで第1回交渉官会合、翌23年2月にはニューデリーで特別交渉官会合、3月にバリで第2回交渉官会合、5月中旬にはシンガポールで第3回交渉官会合を開催した。

表1. IPEF交渉の推移

資料: 米国商務省ホームページ; Indo-Pacific Economic Framework等の各種資料から筆者作成
※クリックで拡大します

2023年5月末に開かれたデトロイトでの第2回対面閣僚会合において、加盟国は他の柱に先駆けて「サプライチェーンの柱」で実質的に合意に達した。その後、第4回交渉官会合を釜山で7月9~15日に開催。9月10~16日にはバンコックで第5回交渉官会合、10月15~21日にはマレーシアにて会合を開催予定であり、年内の合意に向けたスケジュールが組まれている。

このようにIPEFの会合が迅速に進められたのは、バイデン政権が妥結の公表の場として、11月のサンフランシスコでのAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議にターゲットを置いているからに他ならない。そして、四つの柱に交渉分野を絞ったことや、各参加国が4本柱への参加や合意を柔軟に選択できるルールを導入したことも大きい。

米国はなぜインド太平洋地域に目を向けるのか

CPTPP (環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)は2018年12月、RCEP (地域的な包括的経済連携協定)は2022年1月に発効した。この結果、両方に加入していない米国は、インド太平洋地域におけるプレゼンス低下の危機に直面することになった。

米国は、自らのリーダーシップで一度はTPP(環太平洋パートナーシップ)の合意に達しながらも、ドナルド・トランプ政権時に離脱した経緯があり、インド太平洋地域の貿易の枠組みにおける仕切り直しが急務であった。したがって、米国がインド太平洋地域で傍観者とならないためには、FTAとは違う新たな経済枠組みの創設が必要であった。

米国がインド太平洋地域における経済枠組みを重視するのは、いうまでもなくその将来の成長性にあり、ますます中国との政治経済的な軋轢が高まっているためでもある。図1のように、インドや中国を含むアジアの新興市場国は他の地域よりも経済成長のスピードが速く、インドは2023年には前年から6.1%成長、中国は5.2%成長、アジア新興市場国は5.3%成長と見込まれている。これに対して、2023年の先進国の経済は1.5%成長にとどまると予想されている。

図1. 世界の実質GDP成長率予測

資料: IMF; World Economic Outlook Projections、2023年7月より筆者作成。

米国は、インド太平洋地域においてIPEFを立ち上げ、中国に依存しない安定的なサプライチェーンの構築、あるいはアジアのデジタル市場の成長性を取り込もうとしている。同時に、中国との貿易投資を介した半導体・スパコン等の「最先端技術」の流出を規制しながらも、先端ではない汎用の製品や技術については、米国企業の対中取引を確保するという難しい通商戦略を進めようとしている。

IPEFクリーンエコノミーでインフラ支援

IPEF加盟国は、韓国の釜山で2023年7月9~15日に開催された第4回交渉官会合において、5月に合意したサプライチェーン協定の法的な見直しとともに、第1の柱(貿易)、第3の柱(クリーンエコノミー)、第4の柱(公正な経済)における交渉を実施した。

この時に交渉した内容やフルテキストは、非公開でその成果は明らかにされていない。また、合意したサプライチェーンの協定のテキストも依然として発表されておらず(8月中旬現在)、実質的な合意が行われたとの表明があったものの、まだ細かな詰めが必要な状況にある可能性がある。

こうした中で、インドネシアはインフレ削減法(以下、IRA) (注1)における電気自動車(EV)の税額控除の条件の一つである重要鉱物の議論をIPEFの交渉の場に持ち込むことを提案したと伝えられる。これは、IRAの中に「FTAを結んでいる国で処理されたバッテリー用重要鉱物」はEV税額控除の対象になるという条件に関連したもので、ニッケル生産国のインドネシアで操業するEV用バッテリー企業が、米国のEV税額控除を受けられるようにするため、IPEFの場でも議論するよう求めたものと思われる。

これに対して、米国は取り上げるかどうかはまだ何も決まっていないとし、9月のタイでの交渉官会合において議論するかどうかは明らかにされていない。日本は既に3月に米国との間で、FTA締結国として認められる協定(日米重要鉱物サプライチェーン強化協定)を締結済みであり、インドネシアも同様なステータスを得ようとしているものと思われる。

なお、釜山での交渉官会合に先立ち、米国商務省はIPEFのオンライン閣僚会合を6月29日に主催。その中で、米国際開発金融公社(DFC)が、クリーンエコノミーの柱の中で、IPEF新興国の持続可能なインフラプロジェクト向け(再生可能エネルギー、スマートグリッド、蓄電、資源回収等)に、米国のインフラ投資運用会社“I Squared Capital”を通じて3億ドルを融資すると発表した。これは言うまでもなく、IPEFのインセンティブやメリットが少ないとの指摘に対する対抗策の一つと考えられる。

IPEFはインセンティブを高められるか

ジーナ・レモンド米商務長官は2023年7月25日、ワシントンDCのウィルソンセンター主催のイベントにおいて、IPEFの交渉が伝統的なFTAと比べて迅速に進められているのは、サプライチェーンの強靭性や脱炭素などに的を絞った柔軟なフレームワークを有しているためだと語った。

また、IPEFの法的拘束力に関する質問に、協定の基準を満たさないIPEF加盟国はその恩恵を受けられないと発言。同長官は、IPEFのルールや約束を守らない国はメリットを得ることができないため、強制力はあると述べた。そして、IPEFに参加するメリットの例として、5月のサプライチェーン合意に基づく「IPEFサプライチェーン協議会」を挙げ、同機構へ加盟国から任命された人物が行うサプライチェーンの危機の予測や対応、データの共有、商取引の促進などは、大きな価値もたらすことを強調した。

さらに、同長官は米国のインフラ投資運用会社“I Squared Capital”を通じた米国際開発金融公社(DFC)の3億ドルの融資に続き、世界銀行、多国間開発銀行、純粋な民間資本との組み合わせによって、今後 10 年間でさらなる脱炭素化等のためのインフラ投資が実施され、IPEFのインセンティブやサプライチェーンの回復力が高まる、と発言した。

一方、IPEF加盟の新興国は、労働のルールで競争上の優位性を失うことを懸念しており、問題の発生に対して公正な審議やプロセスを確保する「紛争解決メカニズム」を求める動きもある。IPEFのサプライチェーンの柱の合意に基づく協定文は法的精査中で、紛争解決メカニズムが含まれるかどうかは未定との見方もある。

IPEFは永続的か一時的か

米国は、IPEFを構成する四つの柱の中でも、特にサプライチェーン、デジタル経済、労働、環境等の分野における新たな経済枠組みの構築に関心を示している。

バイデン政権はIPEFの米議会における審議を求めておらず、正式な事務局を設けておらず、開発援助イニシアチブや民間投資への複数年次の大型予算を確保していない。このため、IPEFがバイデン政権時において合意に達し発効したとしても、その後の政権においても永続的な経済協定として存続できるかどうかは不透明との意見も見られる(注2)。

もしも、バイデン政権から次の政権に行政権が移行すれば、これまでの例からして、前政権とは異なる新たなスキームによる通商政策が導入されるのが一般的である。ましてや、議会の承認を得ない経済協定は、その分だけ経済枠組みの永続性において不安定になる可能性がある。

しかしながら、次期政権以降で打ち出される新たな貿易協定の枠組みの中に、個々のIPEFの合意内容が組み込まれることは十分にありうる。例えば、次期以降の政権が締結する貿易協定の章の中に、IPEFのサプライチェーンやデジタル経済、及び労働・環境などの枠組みが組み込まれることが想定される。

一つの例としては、今後において米国がTPPに復帰したならば、オリジナルのTPP協定の30章の内、「第22章 競争力及びビジネスの円滑化」、「第14章 電子商取引」、「第19章 労働」、「第20章 環境」などの章の中に、それぞれIPEFのサプライチェーン、デジタル経済、労働、環境などの合意内容が組み込まれる可能性がある。

日本にとってのIPEFのインプリケーション

もしも、IPEFの永続性に不安があったとしても、日本がIPEFに参加し交渉に尽力することは十分にメリットがあると考えられる。なぜならば、IPEFのサプライチェーンやデジタル経済等の経済枠組みは、既存のFTAでは得られない新たな価値を生み出し、インドやASEAN主要国を含む経済圏における取引や物流の拡大に繋がる可能性があるからだ。さらには、日本の経済安全保障の観点からも有益なフレームワークであるし、外交上も対中国カードの一つに成りうる。

IPEF、 IRA、CHIPS及び科学法(注3)の立法化、あるいは輸出管理規則や対中投資規制の強化など、次々と打ち出される米国の通商産業政策は、多くの企業の中国との経済取引だけでなく、グローバルな戦略にも大きな影響を与えており、その対応を間違えると大きな痛手を被ることになる。しかしながら、同時に、新たなサプライチェーンや省エネ住宅・家電市場の開拓などにおいてビジネスチャンスを提供しており、日本企業は米国の通商政策に対して多角的な対応を迫られている。

  1. インフレ削減法(The Inflation Reduction Act of 2022、IRA)は、歳出規模を今後10年間で約5,000億ドルに縮小する一方で、歳入を15%の最低法人税率などの導入により7,380億ドルに引き上げることで財政問題を解決するものとなっている。インフレ削減法案の歳出の内訳を見てみると、気候変動対策費は今後10年間で約3,900億ドル、医療保険改革支出は約1,000億ドルを見込んでいる。同法案は、上院では2022年8月7日、下院では8月12日に可決され、バイデン大統領が8月16日に署名した。
  2. Matthew P. Goodman, “IPEF and the Durability of Policy Initiatives”, Center for Strategic and International Studies, July 31, 2023参照。
  3. CHIPS (Creating Helpful Incentives to Produce Semiconductors)及び科学法の歳出総額は、5年で約2,800億ドルであり、その多くはエネルギー省や商務省、国立科学財団(NSF)、国立標準技術研究所(NIST)といった連邦政府機関の半導体関連の研究開発プログラムなどの予算となる。また、同法は産業界への資金援助を伴う半導体インセンティブ制度向けの予算として5年間で527億ドルを盛り込んだ。この他に、国内半導体工場向け投資を促進するための240億ドル程度の税額控除を含む。
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