一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)

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コラム

2024/02/29 No.128米国は「ハイレベル」なデジタル貿易自由化の方針を撤回したのか?

岩田伸人
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
青山学院大学 名誉教授

はじめに(本稿の目的) 

米国のジョー・バイデン政権(所管:USTR)は、発足時の2021年より、中国のような権威主義国家のデータ規制に対する「ハイレベル」なデジタル貿易自由化を目指すとして、それに必要な3項目(下記)の規律化を、WTOおよびIPEF(インド・太平洋経済枠組み:Indo-Pacific Economic Framework for prosperity:)のデジタル分野交渉で提唱してきた。

だが2023年10月下旬、USTRはその方針をWTOでのデジタル貿易規律化交渉で取り下げるとし(注1)、USTRのウェブサイト(10月24日付け)に下記の声明を示した。

「米国を含む多くの国は、データの自由な越境移動とソース・コードの開示要求禁止に関する取り組み、およびこれらを遵守した場合の貿易ルールへの影響を検討している。これらの議論の進展を妨げないために、米国は国内政策の検討に対する偏見や妨げとなる可能性のある提案への支持を取り下げる。WTO有志国会合(JSI)は依然として重要で、米国は「電子商取引に関する有志国会合」(Joint Statement Initiative on Electronic Commerce、以下「JSI」)での議論に積極的に参加し続ける意向である」(注2) (下線は筆者) 。

本稿では、この「取り下げ」が、今後の米国のデジタル貿易政策にどのような影響を与えるのについて、考察する。

1. WTO有志国会合(JSI)における米国の対応

WTOでのデジタル貿易を規律化するための交渉は、2019年に始まったJSIで行われ、24年2月末にUAE(アラブ首長国連邦)の首都ドバイで開催される第13回WTO閣僚会議での審議に向けて、23年10月に全体の概要が公開された。ほぼ同時期の23年10月末に、キャサリン・タイUSTR代表は、米国がそれまでデジタル貿易自由化規律に不可欠な項目として掲げてきた3項目、すなわち(1)(商用上の個人データを含む)データの自由な越境移動の確保、(2)データ・ローカライゼーションの要求禁止、(3)ソース・コードの開示要求禁止、を取り下げると発表した。

理由は、政策スペース(policy space)上の猶予、つまり国内の利害調整やAI(人工知能)技術の普及に対応して、新たな国内ルール作りや政策領域の再検討が必要なためという。

なお、これら3項目は、「電子的送信への関税不賦課」と共に、米国が関与または当事国となった日米デジタル貿易協定、CPTPPそしてUSMCAといった地域貿易枠組みの中では、既にほぼ条文化されている。

USTRによる上記3項目の「取り下げ」発表は、米国のデジタル貿易政策の大きな変更となり、米国と同調または追従してきた同盟国とのデジタル貿易規律化の動きに何らかの影響を及ぼすことになりそうである。

2. 国内の反応

タイUSTR代表による「取り下げ」発表の直後より、米国内では議会や産業界などから様々な賛否両論が出された。

大別すれば、バイデン政権は米国のデジタル業界(いわゆるビッグ・テク)のグローバルな活動を支援しないのか、とする大手IT業界の批判的な見方、および、バイデン政権は、これまでの大企業優先の貿易政策から国内の労働者や市民の人権やプライバシーの保護に重点をシフトした、とする労組や市民団体の賛同的な見方の二つに分かれるようだ。

3. 従来の米国のデジタル貿易政策

米国のIT業界から見れば、長年、米国政府はGAFAMやビッグ・テクと称される大手IT企業の海外展開を後押しする政策を推進してきた。また、これを妨げる国には貿易制裁的な威圧さえも示してきた。特に1990年代のクリントン政権時代に米国内で商業運用が始まったインターネットに、日本や中国などが接続を認められたことなどを経て、瞬く間にインターネットのグローバル化が進んだ。このため、WTOでの「デジタル貿易」自由化交渉(当時は「電子商取引」)を米国が主導することに異論を唱える国々は、当時、皆無であったと推察される (中国は、当時WTO加盟申請中であり、2001年の加盟承認まではデジタル分野で米国を批判するという選択肢はなかったはずだ。因みに、ロシアのWTO加盟は2012年)。

ビル・クリントン政権下の、1998年第2回WTO閣僚会議で提案された (コンセンサスが得られた場合にのみ次回の閣僚会議までの原則2年間は)「電子的送信に関税を課さないこと」を有効とする暫定合意(いわゆる「モラトリアム合意」)は、途中、空白の期間はあったものの、今日まで延長されてきた。

その間、インドや南アフリカは、モラトリアム合意の下では自国のデジタル産業の保護とデジタル関税収入の確保ができないと不満を述べながらも結局、合意の延長を認めてきた。

このような米国の変質ともとれる状況下で、24年2月のWTO閣僚会議では、モラトリアム合意の延長に必要なコンセンサスが得られるか否かが、衆目の関心事項となっている。

いずれにせよ、冒頭の3項目こそが、TPP(当時)を主導したバラク・オバマ政権時代からWTOにおける米国のデジタル貿易の自由化規律を”ハイレベル”なものにするための絶対条件として、政権が変わっても受け継がれてきたものである(ドナルド・トランプ政権下でさえ、TPPから離脱したにもかかわらず、3項目をデジタル分野の貿易政策目標に掲げていた)。

4.「取り下げ」の背景にあるもの

23年10月末の米国による「取り下げ」は、JSIの交渉で3項目についての合意が得られなかった結果を受けてなされたもので、24年2月の閣僚会議で報告・審議される前に自ら取り下げることでバイデン政権が面子(メンツ)を取り繕った可能性はある。

タイUSTR代表は、デジタル分野での米国内における政策上の猶予(policy space)が必要であるための措置であると述べたが、その背景には、特に次の3点が関わっているのではないか。

第一は、ChatGPTのような対話型生成AIを含むAI技術の汎用性ゆえに、個人のプライバシーや人権、著作権の侵害などのリスクに加えて、新たに生じ得る未知のリスクに対応するための国際的な標準化や規格の策定に必要な多数国間交渉にかなりの時間がかかることである。その際に、政府がAI開発企業に対して、ソースコードやアルゴリズムの開示要求を行えるとするルール作りを米国が推進または賛成するのか否かは不透明である。もし賛成するのであれば、冒頭で述べた3項目の第3項目(ソースコード)について、米国自らが従来の方針とは真逆の方針を示すことになり、結果的には中国の政策、すなわち安全保障上または公共政策上の目的であれば、政府は当該IT企業に対して(ソースコードやアルゴリズムを含む)内部情報の開示を要求できる旨と同じ内容になる。

第二は、大統領就任の当初から「労働者優先」を掲げてきたバイデン政権は、2024年秋の大統領選挙に向けて、米国内の労組および市民団体のからの支持を繋ぎ止めるために、一時的にしろ、WTOにおけるデジタル貿易のハイレベルな自由化を進める方針を取り下げて見せることが、選挙対策上は有利に働く可能性がある点である。

もし、そうであれば、11月の大統領選の結果、バイデン政権の続投が確実になれば、タイUSTR代表が、政策スペース上の問題は解消したとして、再びWTOでのハイレベルな自由化交渉に復帰して3項目を再提示する可能性もあり得るが、今回のJSIでの交渉結果が示すようにWTOでのコンセンサスは得られそうにない。

第三は、汎用性のあるAI技術が国際貿易のあり方を大きく変えるほどに、進化・多様化すれば、最早、今のWTOの原理原則の下でAI分野を規律化することは難しくなるという点である。例えば、WTO のサービス協定では、サービスを四つのモード(態様)に分けて自由化交渉が進められてきたが、ヒトの能力を超える専門知識を有する生成AIの出現によってヒト (専門家)の越境移動が不要になれば、今の「モード3」は無用になり、新たなモード「AIによる専門情報サービス」が設けられる可能性もあるのではないか。

すでに2020年代から発効している、デジタル分野に特化した地域枠組み協定の中には、AIについて定めた条文が散見される。例えば、シンガポールとオーストラリア間で2020年に発効したSADEの第31条「人工知能」、同じくシンガポールと英国の間で2022年に発効したUKDEAの第8.61-R条「人工知能と新興技術」などがある。

それらに共通した特徴は、いずれもAIの国際標準や国際規格が形成された場合には、それを遵守する旨となっている点である。これは、WTOのTBT協定やSPS協定に見られる(WTO以外の国際機関で定めた工業品の規格や食品安全基準の国際ルールに従う)ケースと似ている。重要なのはAI分野の国際標準化をリードするのはどのグループか、どの国か、ということになる。そしてこの標準化に際して、個人の人権や表現の自由を優先すべきか、あるいは、国家(体制)の安全保障を優先すべきかの対立的な議論はあり得る。だがこれにはコンセンサス(全会一致)が必要となるため、OECDやG7などの意向を支持する民主主義国家と、それらに未参加の権威主義国家、さらにグローバルサウスの国々と間で意見対立が生じない国際指針(ガイドライン)程度の低いレベルでの妥協的な取り決めとなる可能性がある。

まとめ(今後の米国のデジタル貿易政策)

結局、米国のデジタル貿易自由化規律への取り組みは、仮に2025年1月に民主党(バイデン政権)から共和党へ代わった場合でも、現状のままで進展する、すなわちWTOの地域貿易協定または(日米デジタル貿易協定のような)WTOとは無関係なデジタル分野に特化した地域貿易枠組みを有志国・友好国との間で形成するという流れが2025年以降も続く可能性が高い。

ただし、IPEFのデジタル貿易分野を含む「柱1、貿易」が協定として発効できるか否か、もし発効できる場合でも冒頭で述べた3項目が組み込まれるのか否かは、不透明であり、2024年11月の大統領選の結果次第といえるようだ。

注.

  1. Inside U.S.Trade (October 24, 2023) “U.S. to end support for WTO e-commerce proposals, wants ‘policy space’ for digital trade rethink”によれば、米国は10月25日(水曜日)の午前中にWTOで開催されるJSI会合で、データ・フロー、データ・ローカライゼーション、ソース・コードの3点への支援方針をやめる旨をアナウンスする、としている。 “The U.S. will announce the decision at the WTO on Wednesday morning at a meeting of countries that are party to the joint statement initiative on e-commerce.”
  2. https://ustr.gov/about-us/policy-offices/press-office/press-releases/2023/october/ustr-statement-wto-e-commerce-negotiations (アクセス、2024年1月15日)
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