2024/09/05 No.137ハリス政権誕生ならばどのような政策が日本に影響を与えるのか~その1 国内政策や労働環境・デジタル経済等のIPEFの枠組みで独自色を出すか~
高橋俊樹
(一財)国際貿易投資研究所 研究主幹
カマラ・ハリス副大統領は2024年8月16日、中間層支援などから成る国内対策を中心とする2024年11月に行われる米国大統領選挙の公約を発表した。しかし、日本などの関心が高い通商外交政策に関しては、バイデン政権を継承するということもあり、依然として独自色の強い案を打ち出していない。本稿の「その1」では、国内対策とともに、中国への追加関税、TPPやUSMCA(注1)及びIPEF(注2)等の貿易協定、さらにはデジタル経済や労働環境問題に対するハリス副大統領の基本的な考え方を探り、「その2」ではハリス政権が誕生した場合の日本企業の対応を検討している。
党大会を機にハリス副大統領の支持率が上昇
ジョー・バイデン大統領は2024年7月21日に大統領選挙からの撤退を表明し、ハリス副大統領は同年8月19日~22日のシカゴでの民主党全国大会で、正式に後継候補への指名を受諾した。バイデン大統領の撤退直後は、トランプ前大統領が今後の大統領選挙を有利に進めるとの観測が高まったが、その後はハリス副大統領の支持率がトランプ前大統領を上回る調査結果が発表されるなど、民主党有利の動きが現れるようになった。
ところが、無所属で出馬していたロバート・ケネディ・ジュニア氏は8月23日、大統領選挙からの撤退を発表するとともに、共和党のトランプ前大統領を支持することを明らかにした。このように、大統領選挙の支持率を巡る動きは日々変動しており、8月末の時点では依然としてハリス副大統領のリードが続いているものの、11月5日の投票日までは目が離せない激しい戦いが繰り広げられると予想される。
ハリス副大統領が今後の2024年の米国大統領選挙において、トランプ前大統領との間で主な論戦を繰り広げるのはインフレ対策や所得格差の是正及び労働者の雇用確保とともに、増減税や中絶及び移民問題等の国内問題への対応と考えられる。なぜならば、有権者の関心が高いのは身の回りの生活関連分野であるからだ。
事実、ハリス副大統領が8月16日のノースカロライナ州での演説で発表した経済政策は、生後1年未満の子供がいる家庭の子育て支援として6,000ドル(約90万円)の税額控除の実施、今後4年間で300万戸の新築住宅の建設、食品や食料品の価格つり上げに対する連邦レベルでの禁止、さらにはメディケア(注3)受給者の医薬品に対する自己負担上限額を年間2,000ドルとすること、などを盛り込んだものであった。
ハリス副大統領の打ち出す通商政策とは何か
民主党は2024年8月19日の全国大会において、同党の24年政策綱領を正式に採択した。綱領は、経済成長、生活コストの削減、気候変動への取り組み、中小企業への投資、人工中絶や銃規制及び移民の問題まで、全体的にこれまでのバイデン政権の方針を引き継ぐ内容となっている。
中国に対しては、デカップリングではなくデリスキングの下での的を絞ったアプローチで対応する、といった従来の方針を改めて掲げている。バイデン政権は既に2024年5月、中国から輸入する電気自動車(EV)に100%の関税を賦課するなどを発表しており、こうした中国製品に対する関税措置はハリス政権が誕生したならば引き継がれると思われる。また、民主党綱領はインド太平洋経済枠組み(IPEF)のスキームに則り、基金を立ち上げることで金融支援を拡充し、人材・技術の育成とともにインフラ投資やクリーンエネルギーなどの開発を進め、経済成長やサプライチェーンの強靭性の向上さらには地球規模の気候変動対策の促進を図るとしている。
ハリス副大統領は、基本的には民主党の政策綱領に沿った政策で大統領選挙に臨むものと思われる。ただし、ハリス副大統領の8月16日発表の経済政策は、単純に民主党綱領の延長線上にあるのではなく、国内の中低所得層に的を縛った生活支援措置やインフレ対策などに対する独自の対応策を打ち出したものである。すなわち、ハリス副大統領はこの公表した経済政策を、今後の大統領選挙戦において前面に押し出してくると思われる。
この点で、ハリス副大統領は大統領選挙に出馬する準備期間が短かったこともあり、国内対策を中心とする経済政策と違い、日本などが関心のある通商外交関連の政策に関しては、まだ独自のカラーを盛り込んだものを発表していない。
ハリス副大統領が通商関連政策で基本的な考えを明確にした事例として、TPPと米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)に反対であったことが挙げられる。ハリス副大統領がこの2つの貿易協定に反対したのは、①TPPは生産と雇用の海外移転や輸入増により労働者に不利益をもたらす、②USMCAは十分な環境条項を含んでいない、と考えたからであった。このため、ハリス政権が誕生したならば、TPPへの復帰については当面は検討することはないと考えられ、2026年のUSMCAの見直しにおいては労働問題や気候変動対策で新たなルールの導入を求める可能性がある。
また、ハリス副大統領は、TPPに限らず関税削減を柱とする従来のFTAの交渉を再開しようとする考えに対して、積極的な支持を打ち出す動きを見せていない。したがって、ハリス副大統領が当選したならば、バイデン大統領と同様に、トランプ前政権時に締結した米国と日本・中国との貿易協定の第2ラウンドだけでなく、米国とEU・英国・インドなどとの貿易協定交渉の再開を当面は進めないと見込まれる。
すなわち、ハリス政権が誕生すれば、TPPへの復帰や第2段階の日米貿易協定交渉などの進展は当面は期待できないことから、ハリス副大統領の今後の貿易協定への取り組みに消去法を当てはめるならば、IPEFやそれに類似した経済繁栄のための米州パートナーシップ(APEP)などを積極的に推進するという選択が浮かび上がる。IPEFに関しては、関税削減を伴わない新たな貿易の枠組みであるため、TPPなどの従来のFTAと比べて労働者の不利益に明確には繋がりにくいこともあり、ハリス副大統領はこれまで積極的に推進してきたバイデン政権の方針を引き継ぐと見られる。
そして、IPEF の貿易の柱では依然として合意できず継続審議となっているものの、今後の交渉において、労働環境問題やデジタル経済の促進、中国に依存しない重要鉱物や資材等の安定的なサプライチェーンの形成、さらには再生可能エネルギーや水素などの気候変動政策を積極的に進め、ハリス色を打ち出そうとすると思われる。IPEFはハリス副大統領が関心を持ち、かつ実行力を発揮できる分野を含んでおり、ハリス政権が誕生したならば、交渉が進展する可能性がある。
トランプ前大統領の関税引き上げを消費税増税と批判
トランプ前大統領は早くから世界一律10%のユニバーサルベースライン関税の実施、中国への最恵国待遇の撤回及び60%の関税賦課、4年間で中国から輸入する電子機器から鉄鋼、医薬品などを段階的に削減、などの幾つものトランプ色の濃い政策を公表している。
さらに、トランプ前大統領は24年8月14日のノースカロライナ州での集会において、当初においては10%としていたユニバーサルベースライン関税を、10~20%にまで広げた強硬な関税措置の実施を表明した。このように、トランプ前大統領は前政権時を上回る関税の引き上げを主張しているし、対中最恵国待遇の撤廃や対中輸入の段階的削減などの新たな中国とのデカップリングに繋がる政策を推し進めようとしている。
こうした中で、トランプ前大統領のユニバーサルベースライン関税の20%発言の翌日、ハリス副大統領は直ちに反撃の狼煙を上げ、このような高い関税引き上げは国民への「消費税の引き上げ」と同等の効果をもたらすとし、同提案に反対の姿勢を示した。同時に、この関税の引き上げにより、米国の家計は消費をする際に最大で年間3,900ドルの税金を支払うことになるとの民主党系シンクタンクの試算結果を披露した。
ハリス副大統領は、基本的には、住宅建設支援や価格つり上げ禁止及び人工妊娠中絶の権利擁護などのハリス色の強い生活関連の国内政策を掲げることで、大統領選挙を有利に進めようとしている。それと同時に、トランプ前大統領との違いを明確に示すため、今後は関税引き上げの問題や環境及びエネルギー関連政策などを状況に応じて使い分けながら、選挙を戦っていくものと思われる。
すなわち、今後の主要な選挙対策の一環で、ハリス副大統領はトランプ前大統領の高関税を用いた通商政策を一種の税金の引き上げだと攻撃し、インフレで購買力の低下に悩む幅広い所得層の票を取り込むとともに、カーボンフリーな社会の実現のために気候変動政策を積極的に取り上げることにより、環境保護グループだけでなく地球環境問題に関心のある一般的な有権者の支持を獲得しようとする戦略を前面に打ち出してくる可能性がある。
トランプ前大統領とは大きく異なるハリス副大統領の気候変動政策
ハリス副大統領は、カリフォルニア州の司法長官として環境汚染対策を実行するとともに、上院議員としてグリーン・ニューディールを支援してきた。そして、大規模な気候変動対策を含む2022年インフレ削減法(以下、IRA)の採決では賛成票を投じたりするなど、長年にわたって環境問題に対しては多大な関心を払ってきた。
ハリス副大統領は、IRAやインフラ投資雇用法(IIJA)などに定められた環境関連設備やインフラ投資などへの支援プログラム(税額控除等)を活用することで、太陽光発電設備の建設、再生可能エネルギーを送電するための高効率な高圧送電線の建設、家計のエネルギー効率の高い住宅関連設備(断熱材、窓・ドア等)や太陽光発電設備の購入、企業の大気汚染削減装置やクリーンエネルギー関連の研究開発への投資、などを積極的に推進しようとしている。ハリス副大統領はこうしたインフラや環境関連プロジェクトなどを後押しすることにより、最終的には米国産業のイノベーション能力を引き上げようとしている。
IRAは風力、太陽光、バッテリー、電気自動車(EV)に10年間で3,700億ドル以上を投入することを規定しており、温室効果ガス削減のために、化石燃料への依存からの転換を促進するように設計されている。これに対して、共和党は化石燃料の開発推進の観点からIRAの改廃を狙っており、2024年大統領選挙において上下両院の過半の議席数を獲得すれば、それを実行する旨を表明している。
ハリス副大統領が関与したこれまでの環境対策としては、ディーゼルエンジンが排出する温室効果ガスから子供達を守るために、スクールバスの電動化を促進するとともに、鉛水道管の交換などの支援実施を挙げることができる。
また、ハリス副大統領は2019年に大統領候補として出馬した際、2045年までに全体的なカーボンニュートラル目標を達成するために(温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする取り組み)、10年間で多額の官民の支出を投じ、数百万の雇用を創出し、電力と地上輸送における温室効果ガスの排出を削減することを提案した。
そして、ハリス副大統領は自動車に対する連邦の排出規制を設け、2030年までに販売される新車の50%をゼロエミッション車(走行中に有害なガスを一切出さない車)とすることを主張した。同時に、低所得および中所得世帯には、EVの税額控除の拡大と、ガソリン車をゼロエミッション車に買い替えるインセンティブを与えるとした。
このように、ハリス副大統領は2024年の大統領選挙のレースにおいて、トランプ前大統領とは大きく異なる気候変動対策を主張し、バイデン政権の政策を継承するだけでなく、より強靭な環境重視の経済政策を目指す可能性がある。
したがって、ハリス政権が誕生した場合、日本企業の大統領選挙後のグローバル戦略を考えるならば、労働者の権利保護や脱中国依存によるサプライチェーンの強化による経済安全保障政策を打ち出すだけでなく、再生可能エネルギーや水素を利用したクリーン経済への移行を図るIPEFの活用を検討することが、その1つのオプションになりうると思われる。
注
- 米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)は2020年7月に発効したが、その前身は1994年1月に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)である。トランプ前政権は発効から20年以上も経ったNAFTAが制度疲労を起こしているとして、メキシコとカナダにNAFTAの再交渉を求め、2017年8月に交渉が開始された。トランプ前政権のNAFTA再交渉の目的は、NAFTAを活用したメキシコからの自動車の輸入拡大を抑え、米国の労働者の雇用と所得の拡大を図ることにあった。そのため、USMCAの自動車の域内原産比率が75%にまで引き上げられるなど、原産地規則を満たすことが大幅に難しくなった。
- インド太平洋経済枠組み(IPEF)は2022年5月、当初は13か国が参加し、後にフィジーが加わり加盟国は14か国となった。2022年9月に初の対面閣僚級会合を開き、①貿易、②サプライチェーン、③クリーン経済、④公正な経済、の4つの柱の交渉目標を設定した。IPEF加盟国は2023年5月、他の柱に先駆けてサプライチェーンの柱で実質的に合意。2023年11月、サプライチェーン協定に署名し、クリーン経済と公正な経済の柱において実質的に妥結したが、貿易の柱は継続協議となった。IPEFサプライチェーン協定は、24年2月に発効。IPEF加盟国は2024年6月、クリーン経済協定、公正な経済協定、IPEF協定に署名した。IPEFのこれらの協定が発効するには、少なくとも加盟国の5か国が協定ごとに国内批准を終え、寄託者である米国に寄託することが求められる。
- メディケアは、65歳以上の高齢者や障害者向け公的医療保険制度であり、連邦政府が管轄している社会保障プログラムである。