2022/08/23 No.96IPEFは中国の一帯一路やサプライチェーンを包囲できるか
高橋俊樹
(一財)国際貿易投資研究所 研究主幹
はじめに
中国に対抗する貿易モデルである「インド太平洋経済枠組み(以下、IPEF)」は2022年5月23日、米国の主導で東京での首脳・閣僚会合において立ち上げられた。翌月の6月11日にはパリにおいてIPEFの貿易分野に関する非公式閣僚級会合、7月26日と27日にはオンライン形式で米国主催の「IPEF閣僚級会合」が開かれた。
そして、これまでのIPEFの4つの柱(①貿易、②サプライチェーン、③インフラ・クリーンエネルギー、④税・腐敗防止)の内容を具体化する準備会合(スコーピング演習)を踏まえ、ジョー・バイデン政権は9月の8~9日にロサンゼルスで閣僚会合を開き、それぞれの柱の最終的な参加国やアウトラインを盛り込んだ共同声明を発表する予定である。
IPEFの準備会合を経て本格的な交渉が始まろうとする中で、本稿では、はたして米国の狙い通りIPEFで中国を包囲することが可能か否かを検証する。
流出したIPEF閣僚級会合の声明草案
通商専門誌のインサイドUSトレード(2022年7月18日)によれば、IPEFの4つの柱の一つである「貿易の柱」の共同声明草案(A Draft Joint Statement on the Trade Pillar of the Indo-Pacific Economic Framework)が流出したとのことである。
流出した貿易の柱の共同声明草案は、「労働、環境、デジタル経済と先端技術、農業、透明性と適切な規制慣行、競争政策、貿易円滑化、開発と経済協力」の8つの項目、及びIPEFの参加国から要請があった「性差(gender)、先住民族」という暫定的な2つの項目を取り上げて解説している。しかしながら、それ自体は日付がない上に個別分野の大まかな説明にとどまっており、具体的に踏み込んだ内容にはなっておらず、これまでの貿易の柱の議論や見方を大きく変えるものではない。
同草案は冒頭において、「参加国は高水準で包括的かつ公正な貿易ルールを策定し、経済活動や投資の拡大により回復力があり持続可能な経済成長を促進し、労働者や消費者及び零細・中小企業に利益をもたらす斬新で創造的なアプローチを開発するよう努める」、と記述している。
撤回されたインドの個人情報保護法案
流出した声明草案の8つの項目の一つである「デジタル経済と先端技術(The Digital Economy and Emerging Technology)」においては、「オンラインショッピングでの消費者保護」や「サイバーセキュリティ」などの幾つかの広範な原則が記載されているが、「国境を越えたデータの自由な移転」や「データローカライゼーション(越境データ流通を規制する動き)の禁止」などに関しては明記されていない。
一方、IPEFの参加国であるインドは、2019年に提出した個人情報保護法案において、センシティブな個人情報のデータはインド国内のデータセンターに保管される必要があるとし、そのデータの国外への移転に関しては情報主体の明示的な同意が必要であることを盛り込んだ。
こうした個人情報保護のルールにデータローカライゼーション規制を取り入れる傾向は、インドだけでなく、多少の差こそあれベトナムやインドネシアなどのASEANでも見られる。流出した声明草案においてデータローカライゼーション規制への記述がないのは、インドや一部のASEANのIPEF参加国へ配慮したためとも考えられる。
インドの個人情報保護法案を巡っては、議会内に賛否両論があり、これまでに多くの修正案が提出され、数年にわたって審議されてきた。こうした中で、インド政府は2022年8月3日、これまで議論してきたインドの個人情報保護法案を撤回したとのことである。インド政府は、撤回された法案に代わり、新たな法的枠組みを再提案する予定のようである。
インドにおけるデータローカライゼーション政策の修正により、IPEFの貿易の柱の議論は微妙に変化するかもしれないが、インドは貿易の柱にオブザーバーとして加わる可能性もあり、依然としてインドが貿易の柱に正式に参加するかどうかは予断を許さない状況にある。
盛りだくさんな貿易の柱の項目
流出した声明草案における「労働」の項目では、「国際的に認知された労働権の執行」、「労働法違反のケースでの企業の説明責任」、などに関して「高水準の労働協約」を策定するとしている。「環境」については、「環境保護対策での協力の強化」、「海洋環境の保護」、「野生動植物の保護」、「サーバーを稼働させるための電力を抑える『環境にやさしい』グリーンデータセンターの促進」、「サプライチェーンの調達における低炭素化の促進」などの目標が掲げられている。
農業の項目では、「輸入規制の導入における透明性の確保」、「輸入ライセンスや輸入承認の手続きの改善」、などを規定している。さらに、「土地、水、燃料の使用を減らしながら生産性を高め、気候変化への適応などに貢献する革新的な技術を含む生産方式の活用」に関する条項を含んでいる。
「透明性と適切な規制慣行」の項目では、「世界貿易機関(WTO)のサービス国内規制に関する共同イニシアティブ」の合意を踏襲すること、同様に「貿易円滑化」の項目では、「WTOの貿易円滑化協定」の実施を加速し、「税関データ・資料の電子処理や貿易円滑化措置のデジタル化」を促進すること、などが取り上げられている。
「開発と経済協力」に関する項目は、「既存の2国間・地域間の貿易関連技術支援やキャパシティ・ビルディング(能力開発)」を基礎とし、「IPEFの支援による開発・経済協力」との共存や円滑な協力関係の樹立を目指す内容になっている。
サプライチェーンの脆弱性の調査を指示
ジャネット・イエレン米財務長官はトロントに訪問中の2022年4月13日、米国はレアアースなどの主要な原材料調達において一部の国への過度な依存から脱却するべきだとし、サプライチェーンを信頼できる国々に限定して構築する「フレンド・ショアリング」(friend-shoring)への支持を表明した。
この考え方は目新しいものではなく、既に2021年6月に発表された「サプライチェーンの回復力(レジリエンス)などに関するホワイトハウスのレポート」(注1)で取り上げられている。同レポートは、バイデン大統領が同年2月24日に署名した「アメリカのサプライチェーンに関する大統領令」(注2)に基づき、米国のサプライチェーンの脆弱性を調査し、その回復を図ることを目的として作成された。
同レポートは、新型コロナ感染症の拡大を契機として、米国の医療用マスクや医薬品の中国への依存度が高いことが明らかになったことを指摘している。同時に、新型コロナを起因とする工場の閉鎖によりサプライチェーンが寸断され、そのために半導体不足が発生しパソコンや自動車などの生産に大きな影響を与えたとしている。
こうしたサプライチェーンの見直しを進めるため、バイデン政権は12以上の連邦省庁にまたがるタスクフォースを編成した。そして、各省庁のスタッフや数十人の専門家が重要な製品に関する詳細な調査を行い、その競争力の回復に関する提言を行った。同レポートが取り扱っているサプライチェーンは、半導体、大容量バッテリー、レアメタル、医薬品の4分野である。
フレンド・ショアリングとIPEF
各省庁の調査結果によれば、現在、自動車の新車に組み込まれる半導体ユニットは100にも増加しているが、米国の半導体のシェアは1990年の37%から今日では12%に低下している。また、インドと中国は米国の医薬品市場においてシェアを競い合っているが、インドは医薬品原薬の7割近くを中国から輸入している。
また、中国は大容量バッテリー向けに世界のリチウムの6割、コバルトの7割強を精製しており、こうしたレアメタルの中国依存の高さが米国の将来の自動車産業の脆弱性に繋がる可能性を指摘している。さらに、米国は電気自動車(EV)にとって必要不可欠なリチウムイオン電池の生産においても、米国は中国に対して相対的に劣位にあるとしている。
このような半導体、大容量バッテリーなどの製造における米国の相対的なシェアの低さと中国に対する依存の高まりが、フレンド・ショアリングの一環としてインド太平洋地域でIPEFを立ち上げ、サプライチェーンとともにデジタル経済やインフラ・クリーンエネルギー等の分野における友好国とのアライアンス(連携)を促進する要因になっている。
DEPAが中国の加入手続きを開始
米国はIPEFの「貿易の柱」にデジタル経済を組み入れ、依然としてデータローカライゼーション規制の問題は残っているものの、インドやASEAN等を取り込むことで、同分野のインド太平洋地域おける中国の台頭に対抗しようとしている。米国には、チリ、ニュージーランド、シンガポールの3か国が創設したDEPA(デジタル経済パートナーシップ協定)を基に、IPEFにおけるデジタル経済のルール作りを検討した経緯がある。DEPAは、ニュージーランドとシンガポールでは2021年1月、チリでは同年11月に発効している。
こうした動きの中で、中国は2021年11月1日、突如としてDEPAに対して参加申請を行った。これを受け、DEPAの合同委員会は2022年8月18日、中国の加入手続きの開始に合意し、交渉に当たる作業部会(議長国はチリ)の設置を発表した。作業部会は中国の加入要請に基づき、DEPAの基準と約束を順守する能力について議論し、中国の加入条件について合同委員会に報告書を提出する予定である。
カナダはDEPA加盟への関心を2020年末に通知し、2022年5月に正式な加盟申請を行った。韓国は2021年9月にニュージーランドに加盟の意向を通知した。中国のDEPAへの加盟申請や加入手続きの開始は、米国のDEPAへの加盟の動きにとどまらず、今後のIPEFでのデジタル経済の議論にも大きな影響を与えるものと思われる。
このように、米中のデジタル分野での覇権争いは周辺国を巻き込んで激しさを増しており、今のところ、IPEFがこの分野で中国を効果的に包囲できるかどうかの明確な見通しは立っていない。
IPEFは一帯一路に対抗できるか
また、米国はIPEFやQUADで打ち出したインフラやクリーンエネルギーの整備策を通じて、一帯一路などの中国の経済支援に対抗するシステムの構築を図っている。これは、一帯一路を活用した経済協力で債務の罠の問題が表面化していることもあり、新興国を中心にビジネスチャンスの拡大として捉えられる可能性がある。それでも、一帯一路構想を飲み込んでしまうほどの強い影響力を発揮するかどうかは現段階では明らかではない。
したがって、IPEFが中国の脅威に対抗できる枠組みになるには、今後の交渉において、米国がリーダーシップを強く発揮することで各国との利害調整に成功し、IPEFの中に市場アクセス分野を含まなくても強制力とインセンティブがうまく機能する「ルール」を導入できるかどうかがポイントになる。
中国へのサプライチェーン包囲網は実現可能か
新型コロナ感染症の拡大は、米国のマレーシアにおける半導体パッケージ工場を閉鎖に追い込み、ミシガン州の自動車メーカーにおける生産・販売目標は計画通りに進まなくなった。また、ロシアのウクライナ侵攻により、資源・エネルギーやレアメタルなどの供給が不安定になり、米国を含む世界各国の生産や物価に大きな影響が現れている。
こうしたことなどをきっかけに、米国はIPEFの枠組みによる安定的なサプライチェーンの形成を目指すようになっており、特にインドやASEANなどに半導体の開発・製造拠点としての役割の拡大を期待している。つまり、バイデン政権はこれらの国をIPEFへ取り込むことで、中国への依存を減らしたインド太平洋地域におけるサプライチェーンを構築しようとしている。
また、IPEFとは別に米国は半導体の主要生産国である日本、韓国、台湾を巻き込んだ「チップス4同盟」の創設を検討しているようだ。バイデン政権は半導体の設計に強い米国と製造装置・素材に強みを持つ日本、高い生産能力を持つ韓国と台湾との間で半導体における協力関係を強化し、安定したサプライチェーンを確保することを狙っている。
バイデン政権は、相手国などとの調整を抱えていることもあり、チップス4同盟を正式に発表していない。これに対して、IPEFにはインドだけでなくASEAN主要7か国に加え韓国も参加するに至っており、これは米国の当初のもくろみが実現できたことを意味する。なお、ASEANの中でも、中国との関係が深いカンボジア、ラオス、ミャンマーは、IPEFの立ち上げには参加しなかった。
IPEFの参加国の決定に米国の思惑が反映されたものの、現時点では米国は各参加国が最終的に4つの柱の中でどの柱に参加するのかを完全に見通すことができない。また、将来において人権・環境等の分野を含む4つの柱のルールを参加国が着実に実行するとは限らない。さらには、IPEFの中に「関税削減を含む市場アクセス」に替わる強いインセンティブを持つ柱やルールを導入することは容易ではないことから、バイデン政権の総力をあげたアイデアの導入や実行力が求められる。
すなわち、IPEFは幾つかの不確実性を抱えているため、現時点では、効果的に中国を包囲するサプライチェーン網を築き上げることが可能だと言い切れないのが実情である。
9月の8日~9日には、スコーピング演習(scoping exercise)を踏まえた今後の4本柱のアウトラインを示すIPEF閣僚会合が計画されており、それ以降は徐々にIPEFのインセンティブやメリットが顕在化し、対中包囲網の有効性の度合いが明らかになっていくものと思われる。
(注1) “BUILDING RESILIENT SUPPLY CHAINS, REVITALIZING AMERICAN MANUFACTURING, AND FOSTERING BROAD-BASED GROWTH”, 100-Day Reviews under Executive Order 14017 June 2021, A Report by The White House, Including Reviews by Department of Commerce, Department of Energy, Department of Defense, Department of Health and Human Service
(注2) “Executive Order on America’s Supply Chains” (14017)、THE WHITE HOUSE、February 24, 2021.