一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)

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フラッシュ

2002/01/07 No.22アフガン・マーシャル・プラン
−復興のカギは自国を二度と戦場にしないこと−

青木健
国際貿易投資研究所 客員研究員
杏林大学 社会科学部 教授

 アフガニスタンは、過去22年間、旧ソ連の侵攻と内戦に明け暮れ、一時の平和もなく、国土は徹底的に破壊された。特に1996年6月、親ソ政権を倒して全土を実効支配したタリバンが、女性の就業と少女達の就学を禁止してから、アフガニスタンを一層疲弊させた。1985年当時、アフガニスタンの1人当たりGDPはわずか248ドルでしかなかったという。これは1日当たり支出額が1ドルという絶対的貧困の水準をはるかに下回る。内乱で疲弊した現在、その水準はもっと低くなり、世界の極貧国になっていることは想像に難くない。 米国の報復攻撃によりタリバンは崩壊した。前後して多民族国家アフガニスタンの主要4部族の代表が、2001年10月、ドイツのボンで暫定行政機構の創設に合意し、アフガニスタン復興のための国際的な支援活動が本格的に開始されようとしている。復興に必要とされる膨大な資金投下から、アフガニスタン復興計画は「アフガン・マーシャル・プラン」とも称されようとしている(注1)。マーシャル・プランとは、第2次世界大戦で破壊された英国、フランス、西ドイツなどの欧州諸国への復興支援計画である。これによって欧州諸国は短期間で復興する大成功を収めた。アフガン復興支援が「アフガン・マーシャル・プラン」と呼ばれようとしているのは、欧州復興にちなんで、アフガニスタン再建の願いが込められているからである。アフガニスタン復興は何を目指すべきか。

マーシャル・プラン

 第2次世界大戦で英国、フランス、西ドイツなどの欧州諸国は大打撃を受けた。戦勝国米国の国務長官であったマーシャル氏は、1947年6月5日ハーバード大学で、米国は「欧州諸国が食糧と必要品の輸入について外貨が不足している分を援助する」用意があると演説した。援助は1948〜51年にかけて実施され、対象国はギリシャ、トルコ、英国、フランス、西ドイツ、イタリアの5カ国で、資金供与額は全体で120億ドルであった。これは当時の米国GDPの約2%に相当する。現在の貨幣価値に換算すると約880億ドルに相当するとのことである(注2)。現在DAC加盟国の発展途上国全体への援助規模が約600億ドルという規模からみて、マーシャル・プランの資金供与規模がいかに大きいかが理解できよう。

 現在、国連をはじめ世界銀行、アジア開発銀行など12の国際機関をはじめ38ヶ国がアフガニスタン復興に必要な資金提供の準備をしている。2001年12月ブラッセルで開催された「アフガニスタン復興支援運営委員会」は今後5年間のアフガン支援額を概算90億ドルとすることに合意した。この膨大な資金がアフガニスタン復興に投入されると、戦災国に対する復興支援としては過去最大級の規模になることは確実であるということで、この点でも「アフガン・マーシャル・プラン」とも呼ばれようとしている。

 永田実『マーシャル・プラン』によると、援助が実施段階に移された1948年上半期には、欧州諸国の工業生産は戦前の1938年の水準を超えた。経済成長は軌道に乗った。マーシャル・プラン実施期間中、西欧のGNPの合計は3割以上増加した。農業生産は戦前の水準を11%上回り、これに伴い物資不足によるインフレ発生は、フランスを除き、1950年までにほとんどの国で抑え込まれた。マーシャル・プラン援助の42%はフランス、西ドイツおよびイタリアに供与された。その後、西欧は通貨の一斉交換制回復、共通関税の導入と経済統合に向けての条件を整備していくようになる。

 マーシャル・プランは「余りにも大きな成功」(注3)を収めた。何故か。第1の理由としては、マーシャル・プラン対象国が工業国であったということが挙げられる。それゆえこれら諸国は戦災に見舞われたといっても人的資源やノウハウはもとよりモチベーション、何世紀にも渡って培ってきた経済発展の制度(官僚制度、徴税能力、政策立案能力、実施能力、アントレプレナーシップ)は破壊されることはなかった。極論すれば機械などの生産設備と生産に必要な原材料のみが不足していたといっても過言ではない。さらにJ.サックスなどは、マーシャル・プランが成功した理由として次の4点を挙げている(注4)。①支援を受ける国のニーズに直接かつ積極的に応えた。②経済再建と基礎的インフラ作りに焦点を合わせ、持続的な経済成長を実現できる状況を生み出した。③「自助」の原則を重視した。自らの資源を動員できる意志のある国に限って援助した。④国民も知っている明確な打ち切り月日が決まっていた。

アフガニスタン経済

 アフガニスタンの経済はどうなのか。1人当り所得水準は先に指摘した。人口2600万人で、このうち8割が農業と牧畜に従事し、麻薬では世界最大の産出国であるという。電気の普及率は5%以下で、医療や公衆衛生、教育は壊滅状態にある。医師は人口5万人に1人、ベッド数は5000人に1台、乳児死亡率は1000人当たり165人で5歳までに1人が亡くなるという。平均年齢は42歳とも46歳ともみられ、これは日本人の平均年齢の半分であり江戸時代の50歳よりも低い。ADBの統計によると識字率は女性15%、男性47%、初等教育就学率は女子32%、男子64%、中等教育就学率は女子12%、男子32%、教師対生徒数は初等教育で58人、中等教育で28人となっている(いずれも1994年から96年にかけての数字)。しかし実態はこれら統計以下のようだ。タリバン支配下の時、教師への給料不払いのため教師の職場放棄が続出し、実質的に学校教育がほぼ崩壊してしまったからである。世界の極貧国であるアフガニスタン経済の復興とマーシャル・プランの対象となった工業国のそれとは当然同列に扱うわけにはいかない。「アフガン・マーシャル・プラン」は全く異なるアプローチが採られるべきである。アフガニスタンの復興は何を目指し、どのような再建策が採られるべきか。

 マーシャル・プランの援助内容は多くが食料、燃料、肥料をはじめ資本財、原材料であったという。アフガニスタンの人々にとって、事態はもっと深刻であろう。最も切実かつ緊急に必要とする物資は食料、燃料、医薬品、住宅であろう。2001年12月ブラッセルで開かれたアフガニスタン復興支援閣僚級会議に備えた高級事務レベル会合は、特に帰還難民の住宅再建や1万5000世帯の家屋復旧、水道・電気・ガスの整備、穀物の種子の配布などの緊急支援策を進めることを決定した。これと並行して緊急に必要とする物資を人々に確実に届けるための道路網の新設でなく修復であろう。しかし最も重要なことは2度と外国の侵攻を招かないことはもとより内戦を起こさないことである。アフガニスタン国民は22年以上にわたる国内の戦乱に翻弄され厭戦気分が強い。この気持ちを持続させ国民のエネルギーを建設に振り向ける方策があるのだろうか。

マレーシアの経験に学ぶ

 筆者は1987年から約3年間マレーシアのクアラルンプールに駐在した。この時印象的な経験をした。

1985年にマレーシア経済は、1957年の独立以降初めてマイナス成長を余儀なくされ、当時まだ自力で事態の打開ができず、不況からの脱出に苦しんでいた。そうした中、1985年のG5の円高ドル安為替レート調整を契機に、日本企業は生産拠点を大量にアジアにシフトさせ、まずタイで投資ブームに沸いていた。そして、日本企業のマレーシアへの本格的進出の動きが、1987年央以降から見られるようになる。当時日本は超大国の様相を見せ、マレーシアをはじめ輸出志向工業化を推進する多くのアジア諸国は、日本企業の海外立地を求める活動と旺盛な日本経済の活力を自国経済内部に取り込み、工業化を一層推進する千載一遇の機会ととらえた。経済超大国がアジアに出現し、その経済的ダイナミズムが直接自国に押し寄せ、自国経済の近代化と工業化に役立たせうる歴史を画するかもしれない好機は、人類史のなかでもめったに到来するものではない。現在がその時であると、それをマレーシア経済が活用すべき「歴史的日本機会」と位置づけ、日本企業の大量誘致を目指した。

 こうした動きと前後して、教育問題を直接の契機に、1987年10月人種抗争再発という危機的状況が発生する。筆者は当時、もしマレーシアが1969年5月につづいて2度目の人種暴動を当時起こしていたならば、国際的信用の失墜と工業化の挫折はもとより、経済的基盤の再建に10年以上必要であろうと懸念した。しかも当時、既に示唆したように、日本企業はタイ、シンガポール、インドネシアなどの周辺国に続々と生産拠点を移転・設置し、これら諸国の工業化に貢献していた。2度目の人種暴動が発生していたら、マレーシアの工業化の遅れは避けられないものとなっていたであろうとも考えた。マハティール首相は、治安維持法の発動や強力な指導力を発揮し、事態の収拾に成功する。その後、マレーシア経済は順調に推移し、1991年マハティール首相が「マレーシアの前途」(Malaysia :The Way Forward)という長期ビジョン(VISION2020。2020年までに先進国の仲間入りを目指す)を発表して国民を鼓舞し、他の東アジア諸国とともに高度成長を10年近く謳歌することになる。

 マレーシアが第2の人種暴動発生を回避できた理由は、マハティール首相の強力なイニシアティブのほかに、次の点が挙げられる。第1はマレーシアにおける外国企業とりわけ日本企業の存在と周辺諸国への急速な進出という環境が、政治的混乱に走ることを思い止まらせ、政治的安定を求める抑止力としての役割を果たしたということである。制度的にもそれを維持する装置が存在した。第2は1969年に人種暴動の経験を大多数のマレーシア国民が直接間接に共有し、相互に抑制的態度を依然有していたということ。第3は1969年当時、貧困層の多くがマレー人であったが、その後生活水準が着実に向上しており、もし第2の人種暴動が発生したら、彼らも多くを失うであろうと考えたこと。つまりこれらマレーシアを巡る内外環境が、抑止力として働いたことである(注5)。

アフガン・マーシャル・プランが目指すべきこと

 2001年12月、東京でNGOを中心とする復興支援会議が開催された。この時「どの分野への支援を優先すべきか」との問いに、ある参加者は「すべて」と答えたという。しかし、日常生活を早急に正常に戻すことは当然のことながら、中期的な戦略目標を分けて復興計画を推進すべきである。ここでは筆者のマレーシアの経験を踏まえて、後者に力点をおいてアフガニスタンの復興計画が目指すべき方向を論じてみたい。

 2度目の人種暴動の発生を未然に防止したマハティール首相は、好調な経済を踏まえ、1990年代初頭10年毎に所得を倍増させ、2020年までに先進国の仲間入りを目指そうというVISION2020を打ち上げた。ビジョンは提示するだけでは意味がない。一般国民が将来どのようになり、その時点での成功と達成に関し自国の姿と自分自身の暮らしを心のなかに思い浮かべられるものでなければならない。さらにビジョンは国民の感情に訴え、情熱を掻き立てるものでなければならない。VISION2020はまさに国民を目標に向かって掻き立てる要素を全て持っていた。1960年代日本は所得倍増を目指し、それに成功した。それと同じ熱気が1990年代のマレーシアで再現された。つまりマレーシアは当時の内外環境を活用し、人種暴動の再発を自ら防止し、そのエネルギーをVISION2020の実現に向けたということである。

 VISION2020に相当するのは、アフガニスタンでは2度と国内を戦場としないことであろう。これはアフガニスタンが目指すべき戦略目標とすべきである。この目標を実現するためには、どのような枠組みを構築したら、国民のエネルギーを向けられるのであろうか。そのための抑止策を国内外に構築することであるが、残念ながらその枠組みの構築は内部からは出てこないであろう。外部から外形的な抑止装置を装着しなければならない。国際的には国連をはじめ周辺・隣接諸国が、アフガニスタンはもとより中央アジア全域の安全保障の国際的枠組みを構築することであろう。これは早急に着手する必要がある。アフガニスタン周辺・隣接の4カ国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスおよびタジキスタン)が地域の安全保障問題を協議するために、2001年12月、ウズベキスタンの首都タシケントで中央アジアサミットを開催した(注6)。いずれパキスタン、イラン、インドさらに先進国も参加して、アフガニスタンはもちろん中央アジア全域の安全保障を確保する国際的枠組みを構築するべきである(この場合ASEANもその経験を生かすため参加するのが望ましい)。一方、現在のアフガニスタンにおける唯一の国内的抑止力は、22年以上にわたる戦争に苦しんだ国民の厭戦の気持ちであろう。これは現在の国民の貴重な資産であるが長く続かない。これだけでは将来の希望がないからである。「アフガン・マーシャル・プラン」が目指すべき戦略目標は、厭戦の気持ちを全国民に共有させるために、進捗が目に見えるようなプロジェクトやスキームを作り具体化させ、これによって将来の不安を除去し、将来に希望を持ち得ると確信させることである。

 この2つの目標を同時に達成することが出来るのが、時間が掛かるが、教育であろう。内戦によりアフガニスタンの教育制度はほぼ壊滅的な打撃を受けた。しかし、そうした状況下でも、タリバンに禁止された女子教育が密かに塾で行われていた。その実情を見ると、同国民の子供達への教育に対する熱情は本物である。教育の遅れを取り戻すには、まず学校の再建である。教育制度が充実していれば、親は自分の子供達が何年後にどうなるか計画が立てられる。「アフガン復興支援委員会」は子供150万人分の教育施設の整備を計画しているという。並行して病院や小規模の診療所を各地に建設することである。人は病弱であったり病気であったら気が滅いる。予防接種などが実施されれば、幼児死亡率は確実に低下するであろう。母親は安心して仕事に就くことができる。

 全国にアフガニスタン国民の要望に応じて、学校と病院を可能な限り建設する。この場合耐久性や使い勝手のよさはもとより伝統を配慮したレイアウトやデザインすることは論を待たない。建築物それ自体も国民へのアピール効果を持たせることが望ましい。つまり、それは再び内戦で破壊したら2度と自ら再建できないのみならず、外国からの支援も期待できないということを悟らせるようなものとすることである。この意味では首都カブール、さらに第2や第3の都市などにも、景観を損なうことなく、10階建て位の中層ビルを数棟建設し、国の再建は確実に進行しているのであり、この行く先のイメージを国民1人1人が実感できるような象徴にする必要がある。これが軌道に乗れば、祖国のために貢献したいと世界中で待機しているアフガニスタン人の帰国を促す呼び水にもなろう。入居は期間を限定して、それらの人々を優先させる。そしてそうした中から、将来自力で都市はもとより経済の近代化を目指す動きと人材が生まれてこよう。

 もうひとつ重要な課題がある。食料の確保である。そのためには40%が破壊されてしまった用水路など灌漑設備の修復である。これの一刻も速い修復が求められる。ただしアフガニスタンの灌漑設備はヒマラヤの雪解け水を自然の力でできた用水路に流すもので、早急な修復が必要だからといってコンクリート用水にしてはならない。それゆえ修復は人海戦術に頼らざるを得ないが、これは雇用創出のみならずアフガニスタン一般国民が毎日作業に参加することによって、日々の作業の進捗を実感できそこに将来に対する期待と希望を見かつ確認することになるであろう。

 これからアフガニスタン復興に向けて、大小様々なプロジェクトが実施されるであろうが、問題は人的資源の確保であろう。誇り高いアフガニスタン国民であり、復興需要もあり労働意欲は高揚しているので、国際機関などの強力な支援のもと、その問題解決はそれほど難しくないのではないだろうか。

 アフガニスタンが目指すことは明らかである。再び強調するならば、自国を二度と戦場にしてはならないことである。これから展開されるプロジェクトなど全て復興策はそれに収斂したものでなければならない。そしてその実現とアフガニスタンの将来は、いつに自国民の努力と国際社会の支援にかかわっている。しかし、将来に対する展望と希望こそが最良の内戦抑止策であり、アフガニスタン再興の鍵である。現在のアフガニスタンでそれが最も求められているものであり、「アフガン・マーシャル・プラン」はそれに応えなければならない。「アフガン・マーシャル・プラン」は失敗を許されない。

(1)産経新聞2001年12月4日付朝刊。

(2)1997年5月、オランダのハーグで開催された「マーシャル・プラン」50周年記念式典でのクリントン前米国大統領の演説。

(3)西垣、下村(1997)、50ページ。

(4)日本経済新聞1997年6月24日付朝刊。

(5)2001年3月、首都クアラルンプールに隣接するセランゴール州のある集落で、ささいな出来事によりマレー住民とインド系住民との間で衝突が発生した。これはマレーシアには依然人種間対立の火種が潜在的に存在していることを見せたものであるが、政府は警察を動員して事態を沈静化させた(中村正志(2001))。

(6)「上海協力機構」もある。中国、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンが参加しており、冷戦後の中央アジア地域の新たな枠組み作りを目指す。

参考文献

永田実『マーシャル・プラン』中公新書、1990年

西垣昭、下村恭民『開発援助の経済学』有斐閣、1997年

青木健『マレーシア経済入門』日本評論社、1990年(第1版)、1998年(第2版)

深町宏樹・小田尚也『国家存立の危機か:アフガニスタンとパキスタン』アジア経済研究所、2001年

中村正志「クアラルンプール周辺の住民衝突とその背景」『アジ研ワールド・トレンド』No.71、アジア経済研究所、2001年8月号

主要日刊紙など

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