2018/06/04 No.375マレーシアで政権交代、動き始めたマハティール首相(92才)
小野沢純
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
2018年5月9日に実施された第14回総選挙(連邦議会下院:定数222の小選挙)で、マハティール元首相率いる野党連合「希望連盟」(PH)が大方の予想を覆して過半数の議席を獲得し、歴史的な勝利を収めた。現首相×元首相の対決というこれまでのマレーシア政治史にない選挙戦となり、ナジブ首相の率いる与党連合「国民戦線」(BN)が133議席から79議席に転落、希望連盟は68から113議席に急増し、これにサバ伝統党などが加わり、合計122議席の新与党体制となった。これで1957年の独立後初めての政権交代が実現した。
国民戦線と希望連盟、PAS(汎マレーシア・イスラム党)の三つ巴戦の結果、希望連盟を構成する4党がPKR(人民公正党),DAP(民主行動党),PPBM(マレーシア統一プリブミ党),Amanah(国民福祉党)の順でいずれも議席数を増やした。PASも意外と善戦した。しかし、国民戦線の中核で33議席を失ったUMNO(統一マレー人国民組織)は希望連盟に22選挙区で、PASに6選挙区で敗けた。よって、今回の総選挙は「UMNOの一人負け」という特徴がはっきりした。
そして国民戦線を構成する他の政党、華人系のMCAが1名、Gerakan(民主行動党)はゼロ、インド人系のMICは2名しか当選できず、ここで独立後からの与党体制(1957年連盟党3党⇒1974年ラザク二代目首相による国民戦線13政党)が終焉状態に近い。親父(ラザク)がつくった国民戦線を息子(ナジブ)が壊したことになる。
サラワク州を除く12州の州議会選挙が同時に行われ、8州までが希望連盟政府となる(クダー、ペナン、ペラ、スランゴール、Nスンビラン、マラッカ、ジョホールの各州、サバ州も希望連盟に連携 )。マレーシアは今回の総選挙を通じて政治的転換期にある。
連邦議会下院(222議席、5年任期)の2018年選挙結果
なぜ政権交代が起き得たのか?
第一の要因は、巷で言われていた“マレー人の津波”というよりも、ナジブ政権の権力の乱用と不正に立ち向かう“マハティール旋風”に都市部のみならず農村部の多くの人びとが共感し、賛同したからだ。
ナジブ首相が政府系投資ファンド1MDBを自ら設立し、その経営顧問委員会委員長に就き、しかも、会社定款117条「1MDBのすべての決定事項は首相の文書による承認を得ねばならない」とあるので、ナジブ首相が実質的に経営を掌握していた。その1MDBに巨額の負債・資金流用疑惑が生じた。なかでも1MDBから800億円相当がナジブ首相の個人口座に入金されたことが2015年7月に公けにされた。司法当局はそれはアラブ王族からの献金であり、犯罪性がないとの理由で捜査終結を宣言した(2016年1月)。
これに反発してナジブ退陣を求めるマハティール元首相は、国会での不信任案審議ができないため、ナジブ退陣の市民宣言を集めて国王に提出したが、効果なく、結局、選挙しかないと判断して、2016年9月にPPBMを結党した。野党連合の希望連盟に加わり、ナジブ政権打倒の運動を展開した。
第二の要因は、もともと反マハティールだった野党勢力がマハティール元首相と利害を共有することになり、共闘体制を強化したことだ。過去二度の総選挙(2008年、2013年)で野党連合は勢力を拡大できたものの、最後の段階でマレー人社会から信頼を得るリーダーシップに欠けていることを痛感させられた。マハティールにとってもPKRやDAPからの支持は必須条件である。マハティールは2016年9月に高裁出廷中のアンワル元副首相(野党連合の実質的な代表)と面談して、両者が和解。そこで、希望連盟はマハティール元首相(PPBM議長)を首相候補者として総選挙入りした。
第三に、ナジブ首相の強権的な選挙戦略(与党に有利な選挙区割りの変更や選挙運動直前に導入した偽ニュース禁止法、マハティールの政党PPBMに活動停止措置、選挙看板に野党連合代表のマハティール氏の写真が撤去されるなど)により、野党連合は苦戦を余儀なくされたが、これらを跳ね返す力があった。力の源泉は、ここでも“マハティール旋風”。今回の選挙で現職の大臣・副大臣が十名以上落選した。その中で注目されるのは、落選したジョハリ第二財務相とラーマン・ダーラン総理府相(経済企画庁担当)、サレー・サイド通信マルチメデア相らはいずれも1MDBスキャンダルでいつもナジブ首相をかばう役割を担っていた。選挙民はしっかり見ていたことになる。
この他、Facebook, WhatsAppなどSNSが日本よりも浸透しており、チュラマ(政治集会)に集まらずともチュラマ映像が農村部にも拡散されることが政権交代にそれなりに貢献したといえよう。
マハティール新政権は政権公約を本当にやるのか?
5月10日に第七代目首相に就任したマハティール首相は、組閣を完了する前に(6月1日まで14閣僚が確定しただけ)、政権公約した「政権交代後100日以内に実現する公約10項目」の準備に取り組むために「賢人会議」を結成(5月12日)、さらにナジブ前政権時代の人事の刷新、1MDB汚職疑惑問題解明への取り組みに早くも着手した。新政権発足して1週間目の5月17日からラマダン(イスラム断食月)に入ったけれども、マハティール政権は新方針を相次いで発表した。5月16日には、GST(消費税)は6月1日から0%でスタートすると発表、法的措置を経て9月までGST撤廃になろう(代わりに販売税・サービス税が復帰する)。
「賢人会議」
マハティール首相のイニシャテイブで5月12日に、政府顧問団となる著名な有識者5名から成る「賢人会議」を結成した。賢人会議の趣旨は、100日以内に実現する公約10項目に取り組むために、利害関係のないベテラン有識者の知恵を借りること。5月16日以降連日会議を開き、鉄道、高速道路、メガプロジェクトの責任者を呼び、ヒアリングを始めている。メンバーは;
―ダイム元財務相(座長役)
―ゼティ前中央銀行総裁
―ハッサン元ペトロナス会長
―経済学者ジョモ教授
―大富豪の実業家ロバート・コック会長(香港在住)
<政権交代後100日以内に実現する10項目>
- GST(財サービス税=消費税)を撤廃する → 6月1日から0%実施
- 燃料補助金制を復活
- 1MDBおよびFELDA(連邦土地開発公社)、MARA(マラ:国民福祉評議会)、TH(タボン・ハジ基金)につき王立調査委員会を設置し、それぞれの指導陣を再編する
- 外国企業に与えたメガ・プロジェクトについて詳細な調査を実施する
- 最低賃金を全国統一し、最低賃金を徐々に引き上げる
- FELDA入植者の不当な負債を帳消しにする
- PTPTN(国家高等教育基金)のローン返済を延期する。対象は月収4,000リンギット以下の借り手。なお、借り手のブラック・リスト制を廃止
- B40(下位所得40%)の人たちに対しは、民間クリニック治療に年500リンギットを支援するヘルスケア制度を導入
- 主婦を対象にEPF(従業員積立基金)を導入
- 閣僚の特別委員会を設置して、1963年マレーシア協定を見直す
1MDB汚職疑惑問題解決のために何をしているのか?
政権交代をもたらした1MDB汚職問題についてマハティール首相はナジブ元首相を筆頭に関連する人たちの対応措置を迅速に決めた。
- 汚職防止委員会がナジブ前首相を事情聴取(5月22日、24日)
- 警察がナジブ自宅や首相官邸など6か所家宅捜索、高級ハンドバッグや貴金属、現金を押収したという(5月16日、17日)
- 首相府に「1MDB特別捜査班」を設置(ガニ元法務長官など4名)
- 賢人会議に「1MDB小委員会」を結成
- 汚職防止委員会トップにシュクリ氏(ナジブ首相に更迭された元副委員長)が就任(5月21日)
- 1MDBの王立調査委員会設置に備えて、各省は文書の部外搬出と廃棄を禁止(5月14日)
- 1MDB関連の要人の国外への出国規制(ナジブ夫妻、アパンデイ法務長官、イルワン財務次官、カリッド前警察長官など)
この他、米国FBIやシンガポール、スイス当局と情報交換を開始した。
ナジブ前首相について慎重に捜査を行い、起訴するかどうかいずれ明らかになるだろう(ガニ元法務長官は2015年7月にナジブ首相に対する起訴状を草稿した段階で解任されたむねマハティール首相に伝えたという)。
メガ・プロジェクトを見直しするのか?
政権公約のとおり、前政権が計画したインフラ関連のメガ・プロジェクトを実施するかどうか、賢人会議を中心に検討を始めている。
5月28日、マハティール首相はクアラルンプール・シンガポール間の高速鉄道計画を中止することを電撃的に発表した。巨額の工費となるが、マレーシアの利益にならない、とマハティール首相は説明した。入札はまだ行われていないが、総選挙前には中国勢優位がもっぱらの見方だった。シンガポール政府との協定があるので、マハティール首相の発表があったものの、内外から高速鉄道建設で賛否両論が残るものとみられる。ナジブ内閣の閣僚ラーマン・ダーランはアジア経済研究所の試算を引用してこの高速鉄道の有効性をアッピールした(IDE-JETRO,”Economic impacts of high-speed rail between Kuala Lumpur and Singapore : an application of IDE-GSM”, March,2018)。
この他、中国の一帯一路戦略の一環でもある東海岸鉄道計画(ECRL)や1MDB絡みの金融特区「TRX」、汎ボルネオ高速道路計画なども何らかの見直しになる可能性がある。
対中国関係、一帯一路をどうする?
“中国を利用し、利用された”ナジブ政権の対中関係について、マハティール首相は対中経済関係を推進するものの、国益を重視する視点から、見直しすることになろう。とくに東海岸鉄道建設(ECRL)はすでに着工されているが(資材・人材ともほとんどが中国から調達)、550億リンギット(85%が中国輸出入銀行からの借款)ときわめてコスト高、それに収益が見込まれないので、赤字路線は必至という論者が多い(2015年の全鉄道の貨物輸送実績が621万トンにすぎないが、ECRLだけで15年後の2030年でその8.5倍の5,300万トンになるという(Bernama, 9/8/2017)。あまりにも非現実的な数字だ。
これは習主席とナジブ首相とのトップダウンで決まった一帯一路戦略であり、もっぱら中国の地政学的影響を重視したプロジェクトである。マラッカ・ジレンマを想定し、マラッカ海峡のクラン港からクアラルンプールを経由して南シナ海の海岸クアンタン港へ直結する戦略的鉄道になる。中国政府との再交渉はきわめて問題が多いとみられるが、習近平主席とパイプがあるとみられるロバート・コック氏を賢人会議メンバーに加えたマハティール首相の思惑は何であろうか。
1MDBを救済するためにチャイナ・マネーに依存したとみられるのが1MDB傘下の独立系発電業者エドラ社の全株式98.3億リンギットを中国の原子力大手の中国広核集団(CGN)に2015年に売却した事例。しかも債務60億リンギットも引き取ることになったので、総額158億リンギットが1MDB救済となった(1MDBの当時の負債総額は約420億リンギット)。ここで無視できないのは、インフラ(発電所)は外資上限49%というマレーシアの外資政策を無視して100%外資を認可してしまったことだ。この特例扱いは、一帯一路のためよりも1MDB救済のためと言わざるを得ない。一国の安全保障にかかわることなのに、ナジブ政権は何を考えていたのだろうか。
ただ、IT分野で中国企業が貢献していることは確かだ;アリババ集団による電子商取引の導入や「デジタル自由貿易区」設置(90年代のマハティール時代に導入したマルチメデア・スーパーコリドーMSCがベースになっているが)。
また、政権公約では希望連盟政府はRCEP(東アジア地域包括的経済連携)を推進する立場にある。中国からの資金は特定の者に独占されず、中小企業を含むマレーシア企業が活用する、と述べているので、新政府は中国に対しても柔軟な姿勢を保つ。
ブミプトラ政策の今後はどうなる?
ナジブ首相は2008年総選挙で野党の攻勢が高まったので、政権発足後はブミプトラ政策の見直しに着手したが、マレー右派からの批判を受けると今度はブミプトラ優遇強化に逆転した。ナジブ政権はブミプトラ政策を政治的道具に利用したのである。
2000年代を通じてマレー人・華人の所得格差はかなり縮小してきた。とくに中産階層ではマレー人・華人がほぼ対等になりつつある。ブミプトラ優遇の時代は終焉に来ている。2020年にはブミプトラが総人口の70%を占めることになるので、憲法153条を改正せずにブミプトラ政策をマレー人側が返却する時はそう遠くないだろう。ただ、そのためには、ブミプトラ政策を政治的道具として使わない、強力な政治的リーダーシップが今こそ求められる。マハティール首相の決断に期待してよいかもしれない。
多民族国家マレーシアはどこへ行く?
そもそも基本的な課題だが、希望連盟の中で選挙前に議論されていない。唯一、政権公約前文の中で、
「2020年ビジョン」に基づいた精神と信頼、連帯をベースにした「バンサ・マレーシア」を構築するために、PH政府は尽力する。
(5月16日、前政権が使った“1 Malaysia”スローガンを使うのを止めるよう各省に指示された)
民族をベースにしたアプローチから実績主義(メリットクラシー)へのシフトという声が希望連盟の中でやがて出てくるかもしれない。しかし、まだその時期ではない、「バンサ・マレーシア」をベースにした枠組みをつくろう、と政権公約は述べているのかもしれない。
「バンサ・マレーシア」(マレーシア国民)の導入
“各民族は自分の慣習・文化・信仰を守る自由があり、しかも一つ国民に属していると感じられるような寛容な社会をめざす“
(Malaysia,The Way Forward,1991)
希望連盟4党は内部分裂しないか?
希望連盟内での4党の権力バランスがどうなっていくのか、内部分裂せずに連携して安定した政権運営面が出来るのかどうか、大きな課題であろう。
従来の民族をベースにした仕組み(多極共存型orパワーシェアリング方式)を続けるのか、少なくとも国民戦線型の統治体系はとらないだろう。しかし、民族にあまりこだわらない仕組みにシフトするといっても、現実に難しい。「バンサ・マレーシア」が定着するようになれば、展望が見えてくるかもしれない。
希望連盟の安定的な政権運営には、92才のマハティール首相をリスペクトしながら、アンワルへの移行の土台を1年以内にどれだけ構築できるかにかかっている。PKRの中に革新派が出て、DAPが抑えたり、仲介役を果たすことになるかもしれない。
一方、マハティール首相は基本的に開発主義者として改革・革新へ向かう方針に変わりがないだろう。そして、現実を判断しながら、「次善の策」を用意できる政治家でもある。これから続出するであろう新政策に注目したい。
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