2020/08/26 No.471東北の夢「ILC誘致」今後に繋がる~欧州次期戦略が日本での計画を評価~
山崎恭平
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
1.はじめに
国民に広くは知られていないが、国際宇宙ステーション(ISS)や南極観測のような日本初の国際科学研究計画であるILC (国際リニアコライダー)を国際社会が注目している。その建設候補地が東北地方で、この計画については首都圏を中心に全国紙等マスコミのカバーが少なかったのに加えて、このところの新型コロナウィルス感染症拡大によってニュース発信が少なかった。しかし、計画のサイト候補地を抱える岩手県と宮城県、そして東北地方では“夢のプロジェクト”として関心が大きく、東日本大震災復興後の新たな可能性を開くものとして期待されてきた。
日本の科学研究計画を担う文部科学省は、2016年以来ILC計画を日本学術会議に諮問し検討してきたが結論を先延ばしし、20年5月にまとまる予定の欧州次期素粒子物理戦略を注目していた。6月に公表されたこの戦略では、日本でのILC計画を評価し将来の協働の可能性が示され、8月には国際組織のILC推進チームが発足して茨城県つくば市のKEK(高エネルギー加速器研究機構)が活動母体に決定されるという新たな進展があった。
地元の東北地方は、中央の政治や学界の消極的な姿勢から実現性を危ぶんでいたものの、この最近の展開を歓迎し、新たな取り組みが見られる。コロナ禍で日本だけでなく世界が経済減速、財政逼迫等の課題を抱えているが、千載一遇の機会ともみられる東北のILC誘致の実現を期待したい。実現すれば、東北地方の振興にとどまらずこれからの日本の科学技術立国を支える有力な計画になるであろう。
2.東北へのILC誘致の背景と可能性
ILC計画は一般には馴染みにくく、これがまた国民に広く知られていないことにも繋っている。ILCはInternational Linear Colliderの略称で国際リニアコライダーと訳され、国際協力によって進められてきた線形あるいは直線型の超大型の加速器を指している。加速器は、素粒子の電子や陽電子等を高エネルギーで光速近くまで加速して衝突させる実験装置で、その応用分野は医療・生命科学、新素材創出、情報通信、計量計測、環境・エネルギー等広範に及び、大きな経済的波及効果が見込まれる。
ILC計画が生まれたのはスイスのジュネーブ郊外でフランスとの国境近くにあるCERN(欧州合同原子核研究機構)で、ノーベル物理学賞受賞のヒッグス粒子の存在を突き止めたのはLHC(Large Hadron Collider)と略される円形の大型ハドロン加速器の後続次世代装置である。ILCの線形あるいは直線型加速器は円形加速器のLHCよりは高い効果が期待される超ハイテクの装置で、80年代から欧米や日本を中心にした国際協力で研究開発されてきた。その狙いは、ILCでヒッグス粒子についてさらに研究し、暗黒物資等まだ分かっていない素粒子を調べて宇宙誕生や物質の成り立ちの解明を図ることである。
ILCは地下にトンネルを掘って設置され、実験過程で高エネルギーを使い素粒子の衝突で放射線が出るため敷設地域には堅牢な地盤があることが要請される。また、建設費は国際的に分担されるものの、建設地国にはより多くの費用分担が求められ、素粒子物理学の研究水準や設備機材の設置、敷設管理の技術、実験管理技能等が求められる。さらに、スイスのCERNには100か国以上から多くの研究者が参画し見学者も絶えないので、国際的な科学研究コミュニティの機能が必要である。そこには英語等国際語に対応できる医療施設や研究者子弟就学を可能にするインターナショナル・スクールが求められる。このような条件に適う国は限られている中で、ILC計画はなぜ日本が想定され、東北地方が候補地に選ばれた要因は何か。
<日本が活躍のお家芸に世界が期待>
まず、ILCの狙う学問分野は基礎科学の素粒子物理学で、日本は欧米に並ぶ世界的な研究水準を誇り、素粒子物理学は国内最多のノーベル賞受賞分野であり、湯川秀樹博士以来世界的な研究者を輩出している。また、研究実験設備の製造技術や能力では日本企業は国際競争力を有しており、CERNの設備では日本製が活躍し、またその管理運営で多くの技術者が参画して高い評価を確立している(注1)。日本での建設候補地では、堅牢な地盤やアクセス等インフラの要件から九州福岡、佐賀両県境の背振山地と東北岩手県と宮城県にまたがる北上山地の南部が検討され、後者が適地とされた。
東北地方は、他地域に比べ開発が後回しにされて来た地域が多い上に、2011年の東日本大震災で大きな被害を受けその復興と将来を見据えて、ILC誘致に大きな期待を示した。そして、この計画を千載一遇の機会と捉え産官民が一体となってILC誘致活動を展開して来た。その中心は東北ILC推進協議会で(注2)、協議会は関連機関と連携し政府に誘致実現に向けた働きかけを行う一方、東北地方の関連産業振興を図り、また住民や子供達への教宣活動や勉強会を開催してきた。国際プロジェクト故に、巨大加速器に関する国際学会LCWS(The International Workshop on Future Linear Colliders)が盛岡市(2016年)や仙台市(18年)で開催され、候補地近くの一関市、奥州市等ではセミナーや説明会が盛んで、世界の研究者や日本の関係者との交流が行われた。筆者は、2回の国際学会を傍聴した機会にILCを日本に建設しようとする国際的な期待の大きさを間近に感じ、また地元の中高生が学び夢を育む姿に感動すら覚えた。大人だけでなく未来の担い手である子供達への教宣や学びは特に岩手県内で活発で、日本全国を見ても稀有な取り組みであろう。
3.政府先延ばしも欧州がILC計画を評価
ILCは国際協力のプロジェクトで、建設費や維持管理費が膨大に及ぶので、誘致は政府が最終的に判断する。所管の行政官庁は科学振興をつかさどる文部科学省である。同省は2016 年から日本学術会議の有識者会議に諮問、6専門家部会は2年余に及ぶ検討の後18年末には意義はあるが建設費負担等で時期尚早と回答、続いて諮問した日本学術会議からも19年には積極的な答申が得られなかった。しかし、同省は、国際社会が日本の誘致を期待していることを考慮し、プロジェクトの推進に当たっては国際的な議論や政府間協議を踏まえるべきと誘致の最終判断を先延ばし、2020年以降の日本の学術研究大型プロジェクト推進の「マスタープラン」計画においても検討を継続した。20年1月末に公表された同答申では基本構想をまとめる重点計画には入らなかったものの、今後基本構想(ロードマップ)を作成する方針もあり、米国の支持が見込まれる見通しに加えCERNが2020年5月にまとめる欧州素粒子物理戦略の見直しを待ちたいとしていた(注3)。
この戦略は、新型コロナウィルス感染症の国際的な感染拡大もあって策定が遅れていたが、2020年6月19日にCERN理事会で「欧州素粒子物理戦略2020」が決議され、CERNホームページで公表された(注4)。同戦略は20年以上の将来を見据えた上で、今後6~7年間に優先的に対応する欧州の素粒子物理学の研究に関する戦略である。2006年に初めて策定され、13年に最初の更新がなされ、今回は2度目の更新である。この中では、「最も優先度の高い将来の取り組みとしてヒッグスファクトリーが位置付けられ、日本でのILC実現はこの戦略に適合する」旨が織り込まれた(注5)。ヒッグスファクトリーはヒッグス粒子を大量に作って、それにより新しい物理法則を発見するILCのような巨大加速器である。欧州は日本で進められているILC計画を評価し、ILCが推進されるなら協働の可能性を示したことになる。
<日本にILC推進活動拠点や東北に新組織発足>
この戦略の公表を受け、萩生田光一文部科学大臣は6月23日の記者会見で、「具体的な協力を持って参加するところまでは踏み込まなかったと認識しているが、欧米の政府機関と意見交換等対応していく」と協議継続の姿勢を示した。また、KEKは27日に学術研究の大型プロジェクトの推進に関する基本構想(ロードマップ)にILC計画を申請と伝えられ(注6)、8月に入りILC国際推進チームの発足を受けて今後の活動スケジュールを発表した。この推進チームは、6月末に活動を終了した世界の主要加速器研究所代表らから構成されるICFA(国際将来加速器委員会)の実働国際研究者組織LCC(リニアコライダー・コラボレーション)の任務を引き継ぐもので、日本のKEKがその活動拠点になった。
同チームの執行部は、欧米やアジア太平洋の代表者や作業部会長らで構成、議長にはICFA内でILC計画を推進する要職を担ってきたスイス連邦工科大の中田達也教授が就く。3つの作業部会を設置し、2021年末までに整備するILC準備研究所の組織・運営体制整備に向けた各国当局や研究所との協議、加速器を含む施設の検討、素粒子衝突実験で生じた現象を調べる測定器の技術向上等を推進する(注7)。準備研究所は4年程度でILC建設や運営を詰め、関係国の政府間合意が得られれば5年後の26年にもILC研究所を立ち上げ建設に着手、建設期間は10年程度で順調なら2035年頃の運転開始を見込む(図参照)。
図 ILCプロジェクト実現への道筋4段階
KEKの岡田安弘理事はビデオ会議アプリ「Zoom」を通じて「国際的な議論を行いILCの道筋が明確になった」と説明、新型コロナウィルス感染症拡大の影響で各国は財政出動が迫られているが、「15年~20年というスケールで世界の状況を見ながら研究段階を引き上げて行く。コロナ収束後は科学技術で国際協力していくことが絶対必要になる」と述べている。また、8月6日には東北ILC推進協議会では下部組織の東北ILC準備室に替わり、新たに「東北ILC推進センター」が発足した。建設候補地の岩手、宮城両県や両県内の16市町、東北、岩手、岩手県立の3大学等22団体で始動し、世界の研究コミュニティ-が国際推進チームを設立し本格的な準備に着手した流れを踏まえ、受け入れ態勢やインフラの整備で地元の検討を加速させる(注8)。
4.新型コロナ感染症対策で不透明ながらも実現に期待
東北地方のILC誘致は、地元では夢の計画と大きな期待をかけ国際社会も日本の早期態度表明を求めてきたが、日本政府や学界はこれまで積極的な誘致姿勢がなく、誘致活動は新型コロナ感染症拡大もあって勢いを欠いたように感じられる。しかし、6月になって政府が注目してきたCERNの次期物理戦略が日本のILC計画を評価し協働の可能性を示すという新たな展開で、地元東北やKEK等関係機関の期待はまた大きく膨らみ、先に述べたような誘致活動がまた活発化している。特に、東北ILC推進センターの誘致活動やILC国際推進センターの推進母体(ホスト)となったKEKの活動に注目し、東北のILC誘致の実現に期待したいと思う。
実現への夢がまた可能性が出てきた中で、気がかりなのは新型コロナ感染症拡大である。この問題は日本だけでなく世界各国の経済社会、人類の生存や生活スタイルに大きな影響を及ぼしており、まだ収束の見通しがついていない。経済面では、今年4~6月期の日本の実質GDPは年率でマイナス27.8 %と戦後最悪となったと速報値が発表されている。欧米諸国では米国が同マイナス32.9%、ユーロ圏同マイナス40.3%、英国同マイナス59.8%等と落ち込みはより大きく、中国をはじめアジアやアフリカ、中南米諸国等の経済低迷もあって世界経済全体の減速は免れない。この傾向はしばらく続き回復には数年を要する見通しであることから、ILC計画の実現には少なからぬ影響が及ぶものと懸念される。
もう一つの懸念は、建設地を中心とする住民の不安がある。地元住民の多くはILC誘致に期待しているが、住民説明会等では巨大プロジェクトの事故からの安全確保、特に放射線への不安が寄せられている。この不安は福島原発事故の際ILC建設候補地でも放射性セシウムの飛来を経験しているという背景があり、安全確保は最優先課題の一つとして対策が必要である。ILC建設費よりもはるかに大きいリニア新幹線建設で、最近地下水をめぐり地域住民との抗争が続いており、東北地方でも話題になっている。夢のプロジェクトでは住民との対話に手を拱いてはならず、実現に向けて万全を期して欲しい。
(注1)ヒッグス粒子にノーベル物理学賞が決まったことを伝える朝日新聞2013年10月9日付けは、「研究 日本も貢献」と題して受賞研究業績には日本グループが参加する大型加速器LHCの実験装置ATRASの名前が明記され、日本人の研究者110人が加わっていたと解説。また、LHCの電磁石はKEKが設計し東芝が製造、特殊ステンレス材を提供した新日鉄住金、超電導ケーブルの古河電工等20社近い日本企業がかかわったと伝えている。
(注2)東北ILC推進協議会のホームページには、ILCの関連報告書・記事一覧、関連先リンク、子供たちの声、ILCやサイトの動画等が収録されている。
(注3)文部科学省の学術研究大型研究プロジェクトの推進に関するマスタープラン及び基本構想(ロードマップ)については、世界経済評論IMPACT No.1625、2020年2月17日付け弊稿「ILC誘致、学術会議重点計画外れるも欧州戦略注視」を参照。
(注4)CERNは2020年6月19日 Particle physicists update strategy for the future of the field in Europe と題したプレス・リリースを発信、同時に20ページから成る報告書「2020 UPDATE OF THE EUROPEAN STRATEGY FOR PARTICLE PHYSICS」 をホームページで公表した。
(注5)上記報告書の中で、ILCについて The timely realisation of the electron-positron International Liner Collider (ILC) in Japan would be compatible with this strategy and , in that case , the European particle physics community would wish to collaborate と評価し、協働の姿勢を示している。
(注6)2020年6月24日付け岩手日報紙「米欧と協議継続意向、次期欧州素粒子戦略受け文科相」参照。
(注7)当初計画から早期着手や建設費圧縮の要請、技術的な向上等もあって、ILCを敷設するトンネルの長さは地下30㎞から20㎞へ、衝突エネルギーも500GeVから250GeVへ引き下げる等の検討がされてきた。
(注8)2020年8月7日付け河北新報紙「ILC誘致22年までに表明を、新組織 政府に要望」、同8月8日付け岩手日報紙「東北ILC推進センター発足、岩手宮城の自治体や大学22団体」参照。
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