2021/09/16 No.494混乱のブラジル政治経済、政界・司法による暴走大統領の食い止めがカギに
堀坂浩太郎
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
上智大学 名誉教授
4桁から3桁へ、新型コロナウイルス感染症(以下、Covid-19)の一大発生地ブラジルのコロナ禍による死者数が減少の兆しをみせている。本来ならば国を挙げてもう一段、抜本対策に向かうべきところだが、来年10月の大統領選に向け、再選を狙うジャイル・ボルソナーロ大統領の暴走が混乱に拍車をかけ、政治・経済のコントロールがままならない。軌道修復のカギは政界と司法による抑止力にあり、同国の民主主義体制が問われる厳しい局面が続く。
さる9月7日は、建国199年の独立記念日であった。首都ブラジリアの官庁街では例年盛大な軍民パレードが実施されるが、昨年来、コロナ対策により取り止めとなっている。それにもかかわらず、この日、連邦議会・最高裁・大統領府などのビル群が立ち並ぶ広大な広場「エスプラナーダ」を埋めたのは、大統領の呼びかけに応えて集まった支持派であった。それよりほぼひと月前の8月上旬のこと、大統領府の前では、三軍司令官を従えた大統領による戦車隊の閲兵式が執り行われている。これまで行われたことのない行事で、しかもこの日は、選挙投票方式の改定案(従来の電子投票から印刷証明付き電子投票への切り替え)を求める大統領案を議会が否決するまさに直前であった。この時から1か月、国外のマスメディアを含め、ブラジル社会をよぎったのは、長期軍政(1964年~85年)の記憶や今年1月、米首都ワシントンで起きたキャピタル・ヒル(米議事堂)襲撃事件であった。
ボルソナーロ大統領は2019年1月1日に就任、今年は4年任期の3年目に当たる。来年10月には総選挙(正副大統領・上下両院議会議員・州知事の同日選挙)が予定されており、もう一期の再選が可能だ。しかも2003年から10年まで2期8年を務めたルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバ元大統領が、2014年来の汚職疑惑ラバジャット(英語でカーウォッシュ)事件の“くびき”から解かれ、立候補の構えをみせている。世論調査機関Poder Dataの最新版(9月1日付け)によると、現時点での大統領選への投票意向は、ルーラ元大統領37%に対しボルソナーロ現大統領は28%と、10ポイント近い差をつけられている(当選要件は投票総数の50%超で、それに満たない場合は決戦投票となる)。
ルーラ元大統領は労働組合出身の左派・労働者党の政治家。政権期間中に取得の豪華マンションや別荘、自分の名を冠した研究所の資金等の不正出所が問われ(ラバジャット疑惑)1年7か月に及び服役した。政治生命は奪われたと信じられていたのが、立件手続き段階での検察と地裁の癒着が問われ、二審判決が出された後2019年11月に釈放され、想定無罪で立候補の道も開けた。「何でもあり」といわれるブラジルにおいても驚きの展開だが、同国の憲法に則った判断として国民の一定の理解を得られている。
建国200周年となる来年の記念すべき大統領選は、今のところ、そして事実上、現大統領と元大統領の一騎討ちとなる公算が強い。前回の2018年選挙において彗星のように表舞台に登場し、民主体制の下、しばしば膠着状態に陥る政治の旧弊をただすとばかり過激な言動を弄して勝利を手に入れたボルソナーロ大統領にとって、ルーラ元大統領の存在は焦りの主因となっている。ボルソナーロ大統領は、黒人や女性などのマイノリティ蔑視や犯罪撲滅のための火器使用容認、アマゾン熱帯雨林での農業開発促進、そして駐イスラエル大使館のエルサレム移転(後日取り止めとなる)などの発言から「熱帯のトランプ(米大統領)」と称された。とはいえ、決選投票で5,780万票、有効投票の55.1%を獲得した18年の実績は、今は完全に色あせている。
3年半の任期中、大統領にとって最大の逆風となったのが、2年目年初に発生したCovid-19である。同国保健省の暫定数値によると、9月11日時点で累計コロナ罹患者数は2,098万9,000人余、死者は58万6,000人余で、2億1,000万の人口を考えても膨大な数に上る。本稿執筆時点の1週間平均の数値はそれぞれ1万5,900人、457人と減少傾向にあり、特に死者数が4月上旬の3,100人台から3桁台に下がったことは国民にとって一条の光となっている。ただ、それが大統領の支持率回復に結びつくものではなさそうだ。
むしろ国民の間では、コロナ禍発生以来相次いだ、感染軽視、根拠不在の薬の推奨やワクチンの選り好み、対策最前線に立つ自治体トップに対する叱責、保健相の相次ぐ更迭、保健省管理部門への軍人配属といった大統領自身の身勝手な言動が重なり、無謀、無責任といった印象が染みついている。国民への指示や行動制限を無視してマスクは不着用、自らオートバイを駆って全国各地で支持者による二輪車デモを演出する始末。連邦の上下両院および州議会にそれぞれ席を置く3人の息子によるフェイク・ニュースの拡散や議会職員の給与ピンハネ疑惑といった事案が重なる。議会には100件を超す弾劾裁判請求の訴えが提出されているが、糾弾されれば糾弾されるほど、大統領の行動はエスカレートするパターンが続く。
その極みが、独立記念日であった。首都ブラジリアで午前、最大の都市サンパウロで午後と、通りを埋めつくした支持者を前に演説、大統領の暴走を諫める最高裁判事を「悪党」と罵倒し、国会が圧倒的多数で否決した印刷付き電子投票の導入を再度主張、さらに非常時開催の「共和国顧問会議」の招集さえ持ち出した。軍政終焉後制定された1988年憲法の要諦のひとつ、立法・行政・司法鼎立の仕組みに真っ向から挑戦する行動だと受け止められている。住宅街では抗議の鍋叩き、政界からは自身の支持基盤にと目下テコ入れ中の中道諸政党から批判・離反の声が上がり、経済界からも懸念表明が伝えられる。全国各地で繰り広げられた親ボルソナーロ、反ボルソナーロのデモ隊が直接衝突を回避したことが不思議なくらいだ。結局、ミシェル・テメル前大統領の取りなしで、大統領も取り敢えずホコを収めた格好だ。
ただ、これで事が収まるとみる向きはほとんどいない。むしろ今回は表立った動きがほとんど見られなかった軍の動静を国全体がじっと見つめているところだ。その表れが、憲法第142条の解釈をマスメディアが取り上げ始めたことにも現れている。「国軍は」で始まる同条は、「祖国防衛、憲法上の権力の保障及びこれらの権力のいずれかの発意によって法と秩序の保障にあたる」とある。1988年憲法制定時に最も議論を呼んだ一項だ。軍の政治介入に見切りをつけ民主化したブラジルだが、この一項は軍の出動の余地を憲法上に残したとの解釈もあり得るからだ。
ボルソナーロ大統領は、就任前、連続28年間連邦下院議員を務めたが、それ以前は陸軍大尉であった。軍へのシンパシーが強く、現閣僚23人のうち7人は軍人、さらに出向の形で3,000人規模の軍出身者を中央官庁に送り込んでいる。3月には、異例とも言われた国防相および3軍司令官の総入れ替えを実施し、最近は軍の式典に足しげく通う姿が注目される。昨年は20回だったのが、今年はすでに30回に上るという(ニュースレターDrive Premium9月8日付け第2版)。大統領は軍を統帥する立場だから制度上問題はないが、当選時の政党を離党し目下「無所属」の身である。政府首班の動静としては気になるところだ。
政治の混乱は経済にも影を落とす。政権1年目には、長年の懸案事項であった年金改革を実現し、その勢いを駆って税制改革、行政改革、国営企業の民営化に取り組む姿勢であった。2010年代半ば以降の低成長にコロナ禍が追い打ちをかけ、昨年の実質GDP(国内総生産)成長率はマイナス4.1%だった。その反動もあり今年は5%の成長が見込まれてはいるが、念願のOECD(経済協力開発機構)加盟に道を開き、グローバル化に対応するためにも、抜本的な制度改革は不可欠というのが官民のほぼ一致した見方だ。しかし現状は、2022年度予算の審議さえ遅れがちである。
4年ほど鳴りを潜めていたインフレが再び鎌首をもたげ始めたのも気がかりな材料。8月時点の消費物価上昇率(過去1年間の月次物価上昇率の累計で計算)で9.7%(2020年は通年で4.5%)に上昇し、中央銀行金融政策委員会が8月上旬、基準金利SELICを本年3月以来4回連続、かつ1度に年率4.25%から5.25%に引き上げたのは危機感を如実に示すものだ。失業率も14.1%で高止まりしている。マクロ数値全般が悪化する中で、貿易収支は8月時点で500億ドルの黒字を記録してはいるが、これも内需の低迷を反映した側面が少なくない。気候変動による干ばつの農業被害や同国にとり主たる動力源である水力発電への影響なども懸念材料として浮上している。新たな危機対応を考えた場合にも、政治の安定は不可欠で、脱線気味の大統領をどう抑え1年後の総選挙までに民意を集約できるのか、政界および選挙も統括する司法の動きから目が離せない。
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