一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)

Menu

フラッシュ

2022/09/01 No.512民主主義の方向性が気になるブラジル大統領選
——上下両院議員、州知事、州議会議員も同時選出の10月総選挙

堀坂浩太郎
(一財)国際貿易投資研究所 客員研究員
上智大学 名誉教授

米州諸国の政治アナリストが、ブラジルの大統領選挙の行方を、固唾を呑んで見守っている。こう述べてもあながち間違いないのでは。これは、世界でも最大規模となる1億5,600万人の有権者が選択する次期政権が、ドナルド・トランプ前米国大統領張りの右派大統領の継続になるのか、それともここ数年、一段とその傾向を強める中南米政治の「ピンクの潮流」(ピンク・タイド)に乗るのか、その方向性が鮮明になるからだ。再選を狙う現ジャイール・メシアス・ボルソナーロ大統領が善戦すれば前者に、2003年から10年まで政権を務め、同国を新興国の雄に導いたルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバ元大統領が復活すれば後者となる。現下の情勢はルーラ候補が優勢だが、前回4年前の大統領選が佳境に達した2018年9月、ボルソナーロ候補が暴漢に腹部を刺され、同情票が増えて、選挙情勢が一変したことはまだ記憶に残るところだ。

ブラジルは1985年3月15日に、それまで21年の長期にわたった軍事政権に別れを告げ、平和裏に民主化した。1988年に新憲法を制定、それをベースに民主体制を整備し、選挙制度もその一環で革新を遂げ、特異な点が少なくない(注1)。4年に一度、定期的に、かつ同日で、中央(連邦政府)・地方(26州および首都ブラジリア連邦区)の政府首班および議員をほぼ全てリシャッフル(切り直し)する。対象は、正副大統領に加え、正副州知事、連邦の上院議員、同下院議員、州議会議員の総計1,627ポスト(但し、上院は3分の1の入れ替え、大統領・知事は正副ペア候補)である。文字通り「総選挙」といえる。

投票日は、憲法によって「大統領の任期満了の前年10月の第1日曜日で、必要な場合(すなわち50%超の絶対多数を得票要件とする大統領・州知事)は10月最終日曜日に決選投票を実施する」と定められている。今年はそれぞれ10月2日と30日である。市町村に当たる基礎自治体(ムニシピオ)の首長・議員選挙は、その中間年に実施される。選挙スケジュールが完全に定式化され、それに向け政治のリズムが生まれる。

デジタル化で即日開票に自信

選挙のほぼ全工程がデジタル化されている点も特色だ。有権者は投票所に出向く必要はあるが、事前の有権者登録から、投票時の指紋認証による身分確認、投票も候補者ごとに割り振られた番号を入力、そして集計までデジタル化されている。同国は、日本の23倍の国土をもつが、「投票日即日に投票結果が判明する世界の民主主義大国の中でも唯一の国」を誇る。選挙の執行は、三権の一角である司法が担う。上述の発言は、その実施を統括する高等選挙裁判所のアレシャンドレ・モラエス長官(最高裁判事)が、選挙運動全面解禁の8月16日に発したものだ。

電子投票は、1996年の市町村選挙から本格的に開始され26年になる。選挙の度に改善と技術革新を重ね、現在では、ブラジル国民の間にすっかり定着した。しかし、その実績に真っ向から意を唱えたのが、現政府トップ、ボルソナーロ大統領(64歳)である。特にトランプ前米国大統領の再選棄却となった2021年1月の米連邦議事堂乱入事件以降、そのトーンが一段と上がった。電子投票に対する再三の不信表明、印刷方式併用の提案、軍による選挙制度監視要求が執拗に続き、発言を注意した司法との間で軋轢が増している。

投票は、18歳から69歳の国民にとり義務、70歳以上の高齢者は任意、そして何よりも16、17歳の若年層にも希望すれば投票機会を付与するという先進的な制度も加わる。有権者総数は人口(2億1,480万人)の73%に上り、その大半が投票所に足を運ぶ計算となる。彼ら有権者が現役大統領の、ウイルスのリスクを度外視し、軍人出身の保健相に任せっきりだった初期コロナ対策も含め、権威主義的とも受け止められるその言動をどう裁定するかが、今回の選挙の、まず最初の焦点と言える。ちなみに、ブラジルの累積感染者数は、日本経済新聞が報ずる米ジョンズ・ホプキンズ大学の集計で、世界第4位(8月末時点3,440万人)、死者数は世界2位(同68万人)である。

現役・右派大統領vs左派・元大統領の一騎打ち

ボルソナーロ大統領は、連邦下院議員を28年務めた政治家ではあるが、軍出身(退任時のポストは陸軍大尉)で、現在ペアを組む副大統領も退役軍人である。再選を目指す今回の選挙でも副大統領候補には政権下で官房長や国防相を歴任させた陸軍将軍を充てた。軍の記念式典には足しげく出向き、軍政の記憶を蘇らせようと画策さえしているようにも映る。

この現役大統領に対する最有力候補が、労働者党(PT)創設者のルーラ元大統領だ。往年の政治家で現在76歳。2003年から2期8年大統領を務めた後、前回選挙でも立候補したが、任期中に自ら署名・成立させた「クリーン候補者」法に抵触し、選挙裁判所から「資格なし」と退けられた経緯がある。国営石油会社ペトロブラスを巻き込んだ同国史上最大の汚職事件「ラバジャット」に絡み収賄容疑で告訴されたもので、2019年11月に最高裁により公判不備の判断が下されるまで、通算580日間獄中にあった。

「インフレ、高金利、社会格差拡大は一期目の当選時(2003年)はもっとひどかった。自分にはそれを乗り越えた実績がある」と意気軒昂だ。8月23日ユーチューブで中継された外国メディアとの記者会見での発言だが、「民主主義は最大の岐路にある」と喝破する。中南米では、2018年のメキシコに始まり、アルゼンチン(19年)、ボリビア(20年)、ペルー(21年)、そして今年に入ってからもホンジュラス、チリ、コロンビアと左派系の政権誕生が相次ぐ。「確かに特異な時期だが、底辺層を引き上げ、社会統合が必要されているからだ」とも語る。

選挙戦は、現旧大統領対決に内外のスポットが最も集まる。しかし、当然のことだが、州知事をはじめ各議員にとっては自分の選挙区があり、事情は一様ではない。その中で、有権者の関心は、彼ら候補者がどのような経済政策を打つかに自ずと集中する。この点が如実に現れたのが、日本語の「カミカゼ」を通称と冠した憲法修正条項の成立だ。貧困家庭向け給付額の増額(月400レアルから600レアルに)、自営トラック・タクシー運転手への燃料費補助、家庭用プロパンボンベの支援加算、高齢者向け公共料金給付、零細家族農やエタノール生産者への援助からなる緊急措置総額412億レアル(約1兆1,000億円)である。

本来、選挙運動期間中は、票の行方を左右しかねない補助政策の追加実施は禁止されているが、上下両院は、非常事態を名目に、年内実施を期限とし、6月末から2週間余りの超短期の審議で、憲法修正に必要な上下各院2度の採択を一気に進め、成立させている。予算枠を突破することから、「カミカゼ」には特攻の意味合いも、との解釈さえある。この施策は、与野党どちらの票に結びつくか即断はできないが、多分に選挙ムードがなせる業であった。この過程で浮かび上がってきたのは、選挙後も、「セントロン」と呼ばれる政界中道勢力のとりまとめ力で、中央・地方、どちらの政局でも選挙後、目を離せない存在となろう。

低迷する経済に燭光も

ブラジル経済は、サッカーのワールドカップを開催した2014年以降、低迷を続けている。2016年のリオデジャネイロ五輪(オリンピック・パラリンピック)も浮揚力にならなかった。コロナ禍発生の2020年の実質国内総生産(GDP)はマイナス3.9%で、21年はプラス4.5%と若干持ち直した。中央銀行が毎週発表する金融エコノミストの集計予測Focusによると、ロシアによるウクライナ侵攻直後の3月初めの時点で、2022年の成長見通しは0.4%とほぼゼロ成長であったが、8月下旬時点ではプラス2.1%に転じている。インフレ率も5.7%だった見通しが、6.7%と落ち着いている(2021年は年率10%)。2021年3月以来この8月3日まで、ブラジル中銀が実に12会合連続で、一貫して政策金利(SELIC)を上げ続け、新興国の中でも最高レベルの年率13.75%まで引き上げた利上げによるインフレ対策が今のところ奏功している形だ。

2022年1~7月の輸出が1,941億ドル、前年同期比20%増と伸びていることも、大豆やとうもろこし、食肉など食料生産国としての強みが現れている。燃料価格の上昇で輸入が1,543億ドルと32%増えたが、黒字(398億ドル)を維持した。経済省によると、輸出の29%を占める最大の貿易相手・中国は、ゼロ・コロナ対策の余波もあり伸び率がゼロだったが、欧米に加え、近隣の対中南米向け輸出が順調に伸びている。輸入の15か月分に当たる3,400億ドル台の外貨準備を保持している点も安心材料といえる。コロナ発生時には、GDPの100%目前と懸念されていた政府の総債務残高も、78%の水準(3月末)で留まっている。

9月7日で独立200周年を迎えるブラジルである。選挙戦の中で、ポスト・コロナ、ポスト・ウクライナを念頭に、どのような成長構想が打ち出されるか、同国の民主主義の方向性と合わせて、米州の政治アナリストにとっては気になるところであろう。


1.選挙システムの変遷は、堀坂浩太郎「ブラジル10月総選挙—正副大統領、上下両院議員、州知事、州議会議員を同日で選出する世界最大級の選挙システムが問う成否」(ラテンアメリカ協会https://latin-america.jp/ラテンアメリカ・カリブ研究所レポート)を参照。

フラッシュ一覧に戻る