2024/02/09 No.125TPP同様に日本がIPEFを取り込む通商戦略は可能か (その1)~発効するサプライチェーン協定と問題点~
高橋俊樹
(一財)国際貿易投資研究所 研究主幹
2024年11月に投票日を迎える米国大統領選挙において、ドナルド・トランプ前大統領の強さが目立っている。もしも、トランプ候補が再選されたならば、IPEF(インド太平洋経済枠組み)から脱退する可能性がある。一方、IPEFサプライチェーン協定は加盟5か国の承認を経て、2024年2月24日に発効することが明らかになった。こうした、IPEFを巡る動きの中で、米国大統領選挙後の日本のサプライチェーン戦略の在り方を探ることにしたい。
IPEFサプライチェーン協定が発効
2023年11月にサンフランシスコで行われたIPEF閣僚会合で署名されたIPEFサプライチェーン協定について、日本、米国、フィジー、インド、シンガポールの5か国が国内手続を完了し、寄託者である米国に対し受諾書を通報した。
これを受けて、米国商務省は2024年1月31日、IPEFのサプライチェーン協定が同年2月24日に発効すると発表した。IPEFサプライチェーン協定の規定によれば、IPEFの14加盟国の内、少なくとも5か国の寄託により同協定の効力が発生する。
IPEFサプライチェーン協定の発効の目途が立ったことで、今後数か月以内に、IPEF加盟国は「IPEFサプライチェーン理事会」、「IPEFサプライチェーン危機対応ネットワーク」、「IPEF労働者権利諮問委員会」の設立に関わる手続きをスタートすることになる(この三つの機関の詳細は、後日掲載予定の、「TPP同様に日本がIPEFを取り込む通商戦略は可能か (その3) ~ 4節27条のIPEFサプライチェーン協定の概要~」を参照)。
そして、発効から30日後の24年3月25日までに、加盟国はこれらの三つの機関に派遣する代表者を選び、他の加盟国に通知する必要がある。それぞれの機関の議長は4月24日までに選出され、付託事項(意思決定の手続き、付託事項の見直し手続き、ワーキンググループの設置等)は6月23日までに作成されていなければならない。
さらに、加盟国はIPEFサプライチェーン協定の発効から120日内に重要分野又は重要物品(以下、重要分野・商品)のリストを作成し、他の加盟国に通知する必要がある。その後、発効から180日後の8月22日までに、加盟国はIPEFサプライチェーンにおける施設固有の労働者の権利侵害に関する通報メカニズムのガイドラインを策定することになる。
IPEFを構成する四つの柱において、サプライチェーン協定以外の今後のスケジュールとしては、加盟国は継続協議となった「貿易の柱(デジタル経済、労働・環境等)」での合意を目指すだけでなく、合意済みの「クリーンエコノミー」や「公正な経済」の協定への署名とともに、それらの批准・承認の手続きに移ることになる。
IPEFサプライチェーン協定における懸念材料とは何か
IPEFのサプライチェーンの柱は、既に2023年5月27日に実質的な合意に達していたが、協定文の細かな詰めや法的なチェックが残されていたため、その公表は少し遅れた。米国商務省は23年9月7日、待望のIPEFサプライチェーンの協定文を公開した。そして、同省は23年11月のIPEF首脳会議でのサプライチェーン協定の署名を経て、遂に翌24年2月後半における同協定の発効に漕ぎつけることに成功した。
IPEFサプライチェーン協定は、TPPなどの包括的なFTAと比較すると、FTAを構成する章の一つのようなものである。分量的には少なく、サプライチェーンに関する分野に特化し、その中で完結する内容となっている。コンパクトにまとめられたIPEFサプライチェーン協定であるが、幾つかの懸念材料を抱えているように思われる。
IPEFサプライチェーン協定は、「IPEFサプライチェーン理事会」などの機関を創設し、サプライチェーンの強靭化を追求している。そして、民間の協力を確実なものとするため、「最高経営責任者フォーラム」という独立したメカニズムの創設を検討できる旨を定めている。しかしながら、創設を検討できることを謳っているだけで、民間のトップを集めた最高経営責任者フォーラムで議論された意見や提言をどのように吸い上げ、いかに活用するかというメカニズムの詳細を明確に描いていない。
したがって、IPEFサプライチェーン理事会などを通じて、最高経営責任者フォーラムやそれに類する枠組みの機能と活用に関するメカニズムをより具体的に提示しないと、民間からの有益な意見を吸い上げ難くなり、IPEFサプライチェーン危機対応ネットワークの機能に影響を与えることもあり得る。
また、IPEFのサプライチェーン協定は、加盟国に対して、安定的なサプライチェーンを形成するため、民間部門、学界、非政府組織(NGO)、労働団体等と協議し意見や勧告を得た上で、重要分野・商品を特定するよう要求している。同時に、潜在的な供給不足が自国の国家安全保障あるいは重大な経済的混乱防止に与える影響、単一の供給者または単一の国・地域への依存度、代替的供給者の利用可能性、などの要素を考慮して重要分野・商品を特定することを求めている。そして、少なくとも3か国の加盟国から通知された重要分野・商品の競争力を高める行動計画を実行するチームを設立しなければならない。
重要分野・商品の特定に関する要求は、必ずしも強制力を伴うものではないため、全ての加盟国がビジネスの最前線に立つ企業の考えを的確に反映する形で選択できるかどうかが懸念される。さらには、杞憂かもしれないが、3か国から選ばれた重要分野・商品の数が多すぎたならば、行動計画チームの設置の調整が難しくなることが予想される。
IPEFサプライチェーン協定の第10条(重要分野又は重要物品の特定)によれば、加盟国は発効から120日以内に他の加盟国に重要分野・商品の一覧表を通報することになっており、いつでも自国の重要分野・商品をその一覧表に追加し、除去・変更することができる。したがって、加盟国が一覧表に手を加える過程を通して、重要分野・商品の数を調整することが可能になるのかもしれない。
また、IPEF加盟国内において、施設固有の労働者の権利の侵害があった場合、IPEF労働者権利諮問委員会は一義的には「通報国」と「通報を受けた国(ホスト国)」との対話を通じて解決を図ることになる。もしも、解決策に合意できない場合は、労働者権利諮問委員会は、IPEFサプライチェーン理事会(場合によってはILO(国際労働機関))と相談しながら事案を処理することになる。しかし、IPEFサプライチェーン協定の労働者権利諮問委員会に関する条項に罰則規定が無い中で、労働者の権利侵害の問題を的確に処理できるかが懸念される。
最後に、サプライチェーン協定を含むIPEFの持続可能性の問題を挙げることができる。2024年米国大統領選挙が行われ、もしもジョー・バイデン大統領が再選されたならば、IPEFの貿易の柱における継続協議が残っていれば引き続き交渉が進められるであろうし、発効済みのサプライチェーン協定においては、サプライチェーン理事会などの機関などの運営が進展することになる。ところが、トランプ前大統領が再選されたならば、IPEFからの脱退を表明する可能性があり、最悪の場合、IPEFは先細りになり漂流することもあり得る。
しかしながら、トランプ再選で米国がIPEFからの脱退を表明しても、サプライチェーン協定は発効しているので、同協定の規定に縛られることになり、米国は同協定の脱退条項を改正しない限り、発効から3年が過ぎるまで脱退することができない。このため、離脱するには一定の時間がかかることになるが、トランプ再選の場合は、前大統領が粘り強く脱退を遂行していくと見込まれる。
その場合、日本には、TPPのケースのように、他の加盟国の協力を得ながら、徐々にリーダーシップを発揮し、米国抜きのIPEFの維持発展を図っていくというシナリオが考えられる(詳細は、後日掲載予定の、「TPP同様に日本がIPEFを取り込む通商戦略は可能か(その2)~求められるトランプ再選に対応できる企業戦略~」を参照)。日本にとって、IPEFサプライチェーン協定はインド太平洋地域における供給調達網の形成に有効な枠組みであり、IPEFを継続するという選択は我が国のサプライチェーンの安定化に効果的であると思われる。
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